

第四部 創世記をさかのぼる
第一章 目的の地は神の山だった
『神』で記されている部分だけを
電話は、やはり悦ちゃんのお母さんだった。しかし、驚いたことに、今いるのは、東京駅ではなくて、羽田空港だそうだ。あれからお母さんとシスターは、尾道から広島へ逆行して広島から飛行機に乗ったのだという。多分、一刻も早く悦ちゃんの無事を確かめたいばっかりに、飛行機をえらんだのだろうと、私は、母心をあれこれ想像していたが、おじいちゃんは「羽田空港からモノレールで田町
へ出て、国鉄に乗りかえて……」と、一応、地下鉄の終点、浅草までの道順を説明して電話を切ると、例によって真剣とも冗談ともとれる調子で、悦ちゃんにきいた。
「どうする? お母さんたちが見えるまで、ここにいるかい? それとも顔を合わせるのがいやだったら、今すぐ、おばちゃんといっしょに八号地へ行ってもいいんだよ……。もしもその方がよかったら、きみの言いぶんは、おじいちゃんが代って、お母さんやシスターに伝えよう……」
「いいえ……わたし、帰ります、ママといっしょに……」まったく素直な態度で悦ちゃんは答えた。
「でも……」
「ん?」
「ママが来るまで、続けてくれますか? お話……やっと聖書の謎、解けはじめたんだから……」
「そうだったなあ……これから、ちょうどモーセの五書の中で、エロヒムという言葉が使われている文章だけを拾い出して、逆に読んでいって、どんな内容が現われてくるか、というところだったんだな……。じゃあ、その話を、もう少し、続けるか」
「はい。お願いします」悦ちゃんは、懸命に頭を下げる。私は「では、一寸ひと休みして……」と言おうとしたが、ここでまた話の腰を折ると、永遠に暗号は解けなくなるかもしれないと思い、黙っていることにした。
「とにかく、へブライ語ではエロヒム、英語ではゴッド、日本語では神という字で書いてあるところを探求していくわけだが、ここで念のため、はっきりさせておかなければならないのは、おじいちゃんがいうのは、聖書批判学者が五書の内容を時代的に区分する目やすとして考えている『神』エロヒムと『主』アドナイとは、問題がまったくちがうということだ。なぜならば、おじいちゃんの問題はあくまでも、暗号文で書いた人(が、あったと仮定して)が残した神と主(YHWH)の区別を、暗号の手がかりとして追究するわけだから……。
そこで、この『神』と『主』(YHWH)によって、モーセの五書を、大ざっぱに分類してみるとね、『主』が中心になっている文章が圧倒的に多くて、『神』が中心になっている部分は、ほんのわずかしかないことに、誰でもすぐ気づくはずだ。
それをさらに、もう少し細かに詮索すると、『神』が中心になっている文章が比較的頻繁に出てくるのは、なんといっても創世記が第一であって、その次は、出エジプト記の前半の部分だ。不思議なことに、出エジプト記の後半、つまり、モーセがシナイ山で神様から十戒を授けられる話のあたりから以後になると、『神』が中心になっている文章は急激に少くなって、そのあとのレビ記や民数記や申命記には、『神』は、ほとんど姿を現わさない。
しかし、『そんなことはない。出エジプト記の後半以後になっても神という字はいたる所に出てくるではないか』と、あとになって悦ちゃんが疑問をもつかもしれないから、ここで、その問題を、一応、解決しておかなければならないだろう。
なるほど申命記には『われわれの神、主』とか、『あなたがたの神、主』というような言い方が、たびたび現われる。しかし、ここでくり返されている神は、すべて『主』の肩書きとして使われているにすぎないんだ。
では、同じく申命記、第二九章一三節に、『また、みずからあなたがたの神となられるため……とあるのはどうだ? ――と、気になるかもしれないが、これは主(YHWH)が、モーセに語っている長い話の中の一句なのだから、当然、主(YHWH)で書かれている文章の一部と見ていいのだ。これに似た例は、ほかに、いくらでもあるが(レビ記二-13・22、二一-6、二二-25・33、二五-17・36・43・55、民数記一五-41、一六-9・10・22、申命記三二)、話がくどくなるから、いちいち説明しない。あとでゆっくり調べなさい。
ただし、念のためもう一つだけ、つけ加えておかなければならないのは、民数記の第二二章、二三章、二四章、二五章の中で、神とか、神々という言葉がくり返されているケースだ。ここで語られている神は、ユダヤ民族の神ではなくて異教徒の神、つまり、一般的な意味での神々なので、暗号解読の対象にはならないわけだ。
こういうふうに考えてきて、もし、モーセの五書のどこかに暗号がかくされているとしたら、それは創世記からはじまって、出エジプト記の前半の部分までであって、出エジプト記の後半と、それに続くレビ記、民数記、申命記の三書は、ほとんど問題にする必要がなさそうだ――とわかった。だが、そうなると、ここでまた、アッと驚くことがあるんだ。
実は、この『モーセの五書の謎は創世記と出エジプト記前半の範囲に限られている』ということは最初からダニエル書でわかっていたはずだったんだよ……。なぜならば、ダニエル書の第七章(25)を開いてごらん。ここは、問題のアラム語で書かれてある部分だが、
彼はいと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法を変えようと望む。聖徒はひと時とふた時と半時の間、彼の手にわたされる
とあるね……悦ちゃん、この『時』という言葉を『書物の数』に置き換えてごらん――ひと時とふた時と半時の間、敵の手にあるその期間を過ぎたあとに、本当のことが書いてあるということ――それも、五書の順序を逆にかぞえたら、どうなる?」
「……申命記、民数記とレビ記、それに出エジプト記の半分……」悦ちゃんは、自分の右手を見据えて重おもしく肯きながら指を折る。
「ホラね、一冊と二冊と、あと半分になるだろう」
「じゃ、やっぱりダニエル書のアラム語のところは、旧約聖書の暗号を解くために書いたものなんですね」
「……と断定できるのは、この鍵言葉を使って、うまく謎が解けたときの話だが……とにかく一応、出エジプト記の中から、『神』を中心とする文章を拾い出す作業を始めることにしよう。……だが、その前にあらかじめことわっておかなければならないことがある。それは、元来、サイファー式解読法は、暗号文の末尾から逆に読むのが原則になっているのだから、われわれもこれから、ユダヤ民族のエジプト脱出の話から、アブラハムの話やノアの洪水の話、そして最後に天地創造の物語へと、歴史の流れを逆にたどっていくわけだが、ただし、その一つ一つの話、たとえばモーセを主人公とするエジプト脱出の話とか、ノアを主人公とした洪水の話のように、特定の人物が中心となって展開する一つの物語の範囲内は、逆に読まないで、文章のままに読むことを通例とする。これについて例外は多少あるが、それは、その都度、説明するとして、とにかく、いよいよこれから、出エジプト記にでてくる神を中心とする文章だけを拾い出すと、どんな物語になるか? ということを調べてみよう。
祭司エテロの教え
「それにしても、この、拾い出すべき文章について、一つ一つを説明していたら時間がかかりすぎるから、いくつかの、ごく重要なポイントだけを、はっきりさせておこう。
まず強調しなければならないのは『神』で書かれた文章で構成されている部分には、いわゆる荒唐無稽な奇蹟の話が、まったく出て来ない――ということだ。
ふつう、出エジプトの物語といえば大ていの人は、モーセが行なった数々の奇蹟を連想するだろう。
たとえば、彼がナイル河の水を血に変えたり、エジプト人の家畜を、ことごとく疫病で殺したり、蝗(イナゴ)を大発生させたり、霰(あられ)を降らせて農作物を枯らすなどという災害を、次つぎと起こしてエジプト国王をさんざん困らせた末に、ようやく出国の許可を出させた話。そして、その後、ユダヤ人たちを去らせたことを後悔した国王が、戦車隊に彼らのあとを追わせると、海が二つに割れて、そこに陸路が現われ、モーセのひきいる一行は、無事にシナイ半島に渡ることができた話。さらに、荒野の道でユダヤ人たちは、食物や飲み水の不足で悩むが、そのたびにモーセが『主』に祈ると、天からマナと称する食べものが降って来たり、岩から泉がふき出したりする話(出エジプト記三-15~一七-16)が、延々と物語られているが、これらの奇跡が描かれている部分は、すべて『主』(YHWH)で書かれているものばかりなのだ。
もっとも、その間に、ほんのわずかの例外(四-16・20、六-2、七-7、八-19・25、九-1以下、一○-3以下、一四-19など)として、神という字が姿を現わすところがあるが、それは、前後の文脈からいって、いずれも『神』が中心になっている文章ではないことがわかるはずだ。
では、『神』を中心とする文章だけ抜き出して読むと、出エジプト記の話は、どう変わってくるのだろうか?
そもそも、モーセがユダヤ人たちをひき連れてエジプトを脱出した目的は、なんだったか? 従来の解釈では、乳と蜜の流れる、豊かで広いカナンの地に行きついて、そこにユダヤ民族だけの楽土を建設することだった――といわれている。しかし、『神』を中心とする文章の部分だけをたどってみると、エジプト脱出の真の目的は、荒野の果てにある神の山ホレブ、すなわちシナイ山で、神に仕える宗教生活共同体を組織することだった――と考えられるのだ。
どうして、そんなことを? と思うだろうが、出エジプト記の第三章を開いてごらん。そこは、たまたま羊の群を追って神の山ホレブの麓にさしかかったモーセにむかって、神が、ユダヤ人たちをエジプトから連れ出せ、と命令する話だが、その第一二節には、
あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたは、この山で神に仕えるであろうと、神は語った
――とあるだろう。だが、それにもかかわらず、そのすぐあとにひき続いて例の乳と蜜の流れる地へ導く話も出てくるのだが、なんとその部分は、『あなたがたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主』が語ったことになっていて、そこから以後が、さっきも話したように、奇蹟の連続になってしまうのだ。
だから、もしそのような『主』が中心となっている文章を、すべて飛ばして読むとすると、モーセは神から、『ユダヤ人たちを導き出して神の山に行け』と命令されてから、(エジプト国王と何度も談判したとか、数々の奇蹟を行なったなどという話は、いっさいなしで)いきなり、
神は紅海に沿う荒野の道に、民を回らされた(一三-18)ということになるわけだ。もっとも、この文章の前後に、
さて、パロが民を去らせた時、ペリシテびとの国の道は近かったが、神は、彼らをそれに導かれなかった。民が戦いを見れば、悔いてエジプトに帰るであろう、と神は思われたからである(一三-17)
という文章や、祖先のヨセフが、かって『自分の遺骸は後日、故国に持ち帰ってくれ』と遺言してあったので、モーセは、彼の遺骸をたずさえて行った、ということが書いてあるのを見ると(一三-19)、如何にも、モーセ一行の本来の目的地は、ペヘリシテびとの国、つまりカナンの地(今日のパレスチナ地方)だったらしくも思えるが、実は、これらの文章は、『主』を中心とする文章と辻褄をあわせるために、あとから、つけ加えたとしか思えないのだ(その理由については、これから、自然にわかるはずだから、今は説明しない)。
それはともかくとして、ここから先でも、まだ、モーセは荒野でいろいろの奇蹟を行なったと書いてあるわけだが、神を中心とする文章だけを拾い出すと、さっき話した、『神は紅海に沿う荒野の道に民を回らされた』(一三-18)から、すぐ第一八章に飛んで、モーセの一行が、神の山の麓にたどりつき、そこで宿営しているときに、モーセの妻の父にあたる、ミデアンの祭司エテロが訪ねてくる話につながるわけだ。そして、ここでまた、従来の旧約聖審の解釈とは根本的にちがう話(祭司エテロがモーセに、主《YHWH》の信仰を教えたのではあるまいかという問題)が現われてくるのだ。
それにしても、この第一八章でも、モーセが妻の父のエテロに、エジプト国王との談判の一件や、神の山に到着するまでの途中の、数々の奇蹟について、くわしく報告したように書いてあるが、その部分は、すべて『主』を使った文章で構成されている。したがって『神』を中心とする文章だけを拾い出すと、
モーセは舅を出迎え、身をかがめ、彼に口づけして、互いに安否を問い、ともに天幕に入った(一八-7)
から、すぐ、
モーセの舅エテロは、燔(やく)祭と犠牲を神に供え、アロンとイスラエルの長老たちも皆きてモーセの舅とともに、神の前で食事をした(一八-12)
につながるわけだ。
さあ、ここで問題になるのは、神の祭りを行なっているのが、モーセではなくて、エテロだということだ。つまり、ユダヤ教にとって欠くことのできない燔祭(はんさい)とか犠牲とか、神の前で、ともに食事をするという祭りの形式は(もちろん信仰の内容を骨子として)、この時はじめて、エテロからモーセに伝えられたのではないか、という説は、実は、ここから出てくるわけなのだ。
そればかりでなく、その翌日、エテロは、モーセが一般の人びとの持ちこむ、細ごまとした相談ごとに、いちいち応待して、一日じゅう忙殺されているのを見て、そのやり方はまちがっていると苦言を呈する。『そういう日常の小さなできごとを裁く役目は、他の人たちにまかせるべきであって、あなたの使命は、彼らの歩むべき道と、なすべきことの大綱を誤りなく指し示すことにあるのだから』
と、注意する。実は、この部分の文章が、はっきり『神』によって構成されているのだ。
モーセは、舅の忠告に強く影響されて、その後、(つまり、次の第一九章以下で)神の山にのぼることになり、その結果、神から、例の十戒をさずけられるわけだ。だが、ここからが大問題なんだ。
なぜならば、このあとの、出エジプト記の後半から、レビ記、民数記、申命記の全篇にわたって、あの厖大で煩瑣(はんさ)な、道徳や祭式に関しての、厳格きわまる掟がビッシリと記述されているわけだが、それらは、すべて主(YHWH)が、モーセに直接、口伝えしたものだということになっている。しかも、それらの部分を熟読してみると、ぜんぶ『主』の登場する文章によって成っているのだ。
さあ、そうなると、ここで改めて考えなおさなければならないのは、モーセにひきいられたユダヤ人たちが、神の山ホレブで『神に仕える』(三-12)とは、どういうことなのかということだ。
『あった』ではなくて『あれ』なのだ
「そこで、もう一度、出エジプト記の最初から、『神』を中心とする文章のあとを追ってみると、モーセがユダヤ人たちを荒野につれ出した理由は、かならずしも彼らのエジプトにおける奴隷的な苦しい労働や、貧しさからの脱出でもなければ、また、乳と蜜の流れるカナンの地に移住して、物質的に豊かな生括を享楽するためでもなかった――らしく思われるのだ。
なぜならば、出エジプト記の第一六章(3)では、荒野につれ出されたユダヤ人たちが、『われわれはエジプトの地で、肉の鍋のかたわらに坐し、飽きるほどパンをたべていたときに……』とつぶやき、また民数記第一一章(4)では、『ああ肉がたべたい。われわれは思いおこすがエジプトでは、ただで魚を食べた。キウリも西瓜もニラも玉ねぎも、そしてニンニクも……』と不満をならべているところから推察すると、貧しいがゆえに、より豊かな生活を求めてエジプトを離れた、という説には、どうも納得しかねるのだ。
では、モーセは、荒野の中の、極端な貧窮生活に、なにを期待したのだろうか? おそらく彼は、その当時、世界第一の繁栄と浪費を誇っていた退廃的なエジプト人の都会を見すてて、神の山の麓に神聖な宗教生活の共同体を組織したかったのだ――と、おじいちゃんは解釈している」
「でも、それは、おじいちゃんの、独りぎめなんじゃありませんか? げんに、ユダヤ人の子孫たちは、そのあとカナンの地に攻め込んで、自分たちの独立国家を建設するという理想を、実現してるわけでしょう?」私は、やっと抵抗した。
「いや、それは聖書に書いてあることを、なにもかも歴史的事実として肯定するからで、偏見のない現代の歴史学や考古学の立場からすると、モーセたちのエジプト脱出も、ユダヤ十二部族がそろってカナンの地に攻めこんだ話も、伝説にすぎないといわれているんだ」
「じゃあ、なおのことに、もし聖書のエジプト脱出の話がただの伝説なら、その伝説によって、モーセたちがシナイ山の麓で神に仕えようとしたのだと想像するおじいちゃんの意見も、無理になるんじやありませんか?」……仮設がグスグスだったら、証明は無意味になるかもしれない……これは、おじいちゃんの話を聞いていて、何度か感じた不安だ。そして、それには、もう一つの怖れが、一瞬、加わる。(ドン・キホーテについてあるくサンチョの苦辛はやっぱり水泡に?)
……そんな、私の妄想を砕くように、おじいちゃんは右手の人さし指を宙に突き出していった。「そこなんだ。そこが一ばん大事なことなんだ!
今、われわれの前に、一冊の旧約聖書という本がある。しかし、この中のモーセの五書には、明らかに『主』を中心とした文章で構成されている物語と『神』を中心とした文章で構成されている物語が、錯綜してでてくる。その場合、われわれが解明しなければならないことは、どっちの話が、歴史的事実に近いか、ではなくて、いったい彼らは、各々の物語を通じて、それぞれ何を言いたかったの
か? ということなのだ。いいかね? おじいちゃんの話をよく聞いてもらいたいのは、ここなんだよ……サイファー式の暗号文を解読するということは、文章を逆に読むというだけではないのだ。それよりもつと大切なことは、表面どおりに読めば、『過去にこんなことがあった』と読めることが、実は『将来かくあれ』と筆者が叫んでいるのだ――と読みとらなければならないということなのだ。
ところでね、そのことを裏付けているように思われる、面白い言葉がある。……列王記 上の第一○章一四節のところを開いてごらん」
私はチラと悦ちゃんを見ると、さっき青ざめていた顔色は、むしろ紅潮して、口をキュッとむすんでペイジをくり出している。
「……『さて一年の間に、ソロモンのところに入ってきた金の目方は、六六六タラントであった』
――ホラ、ここに、またまた六六六という数字が出てくるだろう.ソロモンの栄華といえばあまりにも有名だが、この文章で、そのソロモンの栄華の基本になったものは、実は、その当時、彼の手に入ってきた六六六タラントの黄金だったといっているんだ。言いかえれば、この六六六タラントこそ、ソロモンの栄華のシンボルでもあるわけだ。
したがって、もし、かりに、出エジプト記の中で、『神』を中心とする文章によって構成された部分が示す本当の目的が、エジプトの奴隷生活からユダヤ人たちが脱出したという過去の歴史を物語ることではなくて、捕囚後のユダヤ人や、その後の子孫たちにむかって、『ソロモン王の黒幕であったザドクの子孫たちが捏造した、現世利益的迷信的な宗教にまどわされず、本当の意味での神に仕える生活とはなんであるか、ということを正しく理解せよ』ということにあったとすれば、ヨハネの黙示録にでてくる六六六という数によって表わされている獣とは、実はソロモンの栄華、つまりソロモン王のことであるかもしれない。そしてまた、その六六六という獣の権威を笠に着て、ユダヤ民族を苦しめる第二の獣こそ、ザドク一門やそれをとり巻く人びと(イエス時代のサドカイびとたち)を指しているのだという、今までとはまったく別の、鍵言葉の解釈もできるわけだ。
だが、いずれにしても、出エジプト記の中の、『神』を中心とする文章だけを拾い出してみると、ソロモンの栄華的な、物質文明の奴隷となることを、根本的に否定して、『荒野の果てのシナイ山で、誠心誠意、神に仕えよ』とさとしている、としか、おじいちゃんには読めないんだ。しかも、その『神に仕える』ということそれ自体が、ザドク一派の主張する主(YHWH)に仕えることとは、まったく意味がちがうようだ。
その証拠には……モーセの五書を表面的に読むかぎりでは、主(YHWH)をまつるための重要な宗教行事はすべて、レビ族の中でも特にアロンの子孫である祭司にしか許されていない。したがって、一般の信者は、いつもただ、主(YHWH)の怒りに触れることを、おそれおののきながら、主(YHWH)の罰が下されることがないようにと、捧げ物をもってエルサレムの神殿に参詣し、その捧げ物のすべてを祭司の手にゆだねて、その祭司による主(YHWH)へのとりなしを願うだけだ。
そればかりでなく、出エジプト記ではたびたび、普通の人間が万一、主(YHWH)の姿を見たり、その声を聞いたりしたら、それだけで死ななければならないことを強調している(一九-21、二○-19)。
ところが奇妙なことに、出エジプト記の第一九章(17)には、『モーセが民を神に会わせるために宿営から導き出したので、彼らは山の麓に立った』とある。ただしこの文章の少し先には、主(YHWH)がモーセにむかって、一般の人間がシナイ山に登ってきて神の姿を見ようとしたら、罰として死ななければならないと告げている話がでてくるのだが、あらためて言うまでもなく、その部分は『主』によって構成されている文章なのだ。
そこで、それらの『主』の部分を飛ばして『神』の部分をたどって行くと、驚いたことに第二四章(9)では、
こうしてモーセは、アロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちとともにのぼって行った。そして彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下には、サファイアの敷石のごとき物があり、澄みわたるおおぞらのようであった。神はイスラエルの人びとの指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て飲み食いした
という、まことに意外な文章が、現われてくる。
つまり、ここでもまた、『神』による暗号文をかくしたと思われる人物は、『アロンの子孫以外のものが、主(YHWH)に近づけば、死ななければならない』という、ザドク一派が捏造した、おどし文句を根底から否定している――としか、考えられない。
いいかい? 悦ちゃん、『神』を中心とした文章を書いた人物は、過去にあったと言い伝えられているユダヤ人のエジプト脱出の物語の、真相はどうなのか、ということを論じているのではなくて、ただひたすら、後世のユダヤ民族に対して、いや、むしろ全人類に対して、物質文明の奴隷生活から脱出して荒野の果ての神の山のような、清浄な結界にこもって、永遠の命を得るために修行せよ ――と、叫んでいるのだ。何千年もの間、叫びつづけているんだよ……。
さあ、そうときまったら、次は、いよいよ創世記だ。
第二章 ヨセフ、エサウ、アブラハム
二つの兄弟喧嘩
「創世記に書かれている物語といえば、その第一は、創世記という題名のもとになった天地創造からアダムとエバの誕生や、彼らがエデンの園を追放されるまでの話で、第二は例のカインの弟殺しの物語だね。第三はノアの大洪水、第四がバベルの塔、そして第五がアブラハムとその子のイサクの話、第六はそのイサクの子のヤコブの前半生の物語で、最後の第七は、もっぱらヨセフを中心としたヤコ
ブの三人の息子たちの話だ。
となると、この第七番目のヨセフの話が、創世記の最後部に書かれてあるのだから、サイファー式の逆読み法でいけば、当然、このヨセフの話の分析からはじめなければならないことになる。
だが、おじいちゃんは、この第七番目のヨセフの話と、一つ前のヤコブの話を、いっしょにまとめて考えたいんだ。その理由は、――ここで例のジャン・アストリックが書いた『もとの覚え轡についての推測』という本のことを思い出してもらわなければならないんだが――ジャン・アストリックが、この創世記のなりたちに疑問をもったそもそもの原因は、同じ内容の記事が二回以上くり返して出てくることがあまりに多いということだった。しかも、その重複してでてくる話をよく調べてみると、かならず一方は『主』で構成されている文章であり、もう一方のものは、『神』によって構成されていることを発見したということだった。
そこで、創世記の場合には、出エジプト記とはやや違って、同じ話のくり返しということが、暗号解読のもう一つの重要な鍵になるように思われるのだ。
ところが困ったことに、節六のヤコブの話と第七のヨセフの物語は、その条件と一致しない。この二つは、いずれも、『主』による部分と『神』による部分が並列しているにもかかわらず、同じ話のくり返しが、まったく出てこないのだ。
となると、同じ話のくり返しがある天地創造やノアの洪水や、アブラハムの物語に対して、この、ヤコブとヨセフの二つの物語は、まったく別の方法で暗号文が構成されているのか? というと、どうも、そうでもないらしい。なぜならば、このヨセフ、ヤコブの二つの物語の一つ一つの話の中には、同じくり返しが出てこないが、この二つを比べてみると、この二つの物語自体が、実は非常によく似たテーマを持っているということがわかるのだ。
では、その共通のテーマとは、どんなことか? それを読みとるために、まず、ヨセフの物語の内容から、調べることにしよう。
アブラハムの孫にあたるヤコブには、一二人の男の子があったが、彼はその中でも、第一一番側と一二番目にあたる、ヨセフとベニヤミンという、末っ子兄弟を溺愛した。そしてヨセフもまた、自分が、とりわけ父に愛されていることを意識して、なにかにつけて兄たちを軽んずるような態度をしがちだった。そのなまいきな言動に腹を立てた一○人の兄たちは、ある時、共謀してヨセフを殺そうと
したが、結局、命だけは助けて、通りがかりの隊商(キャラバン)の一行に、奴隷として売り渡してしまった。
こうしてエジプトに連れてゆかれたヨセフは、そこでもまた、いろいろの深刻な困難に遭遇するが、持ち前の才能と働きとによって、最後には、エジプト国王の絶大な信頼をうけ、国王につぐ地位にまで出世する。ところがちょうどそのころ、ユダヤ地方に大飢僅が発生したので、例の一○人の兄たちが、食糧を買うためにエジプトにやってくる。
ヨセフにとっては、この時こそ、自分の前半生を破滅寸前に追い込んだ兄たちに復讐する絶好の機会だったにもかかわらず、彼は兄たちに大量の食糧を持ち帰らせたばかりでなく、最後には、兄弟たちの家族を、父ヤコブもろともエジプトにひきとって、生涯そこで楽しく豊かに暮らせるようにしてやる(創世記三七~五○)。
大体ヨセフの物語は、こういうあらすじになっているのだが、これを、例のごとく、『主』の部分と『神』の部分とに区別してみると、神(エロヒム)という名が現われるのは、ヨセフが、エジプトで出世しはじめるころからで、特に、彼が兄たちに対して、怨みを返す代りに恩で報いるという非常に劇的な話の部分の文章は、まったく神(エロヒム)によってのみ構成されている。
ただし、その中で、第四四章にだけは、数回にわたって主という言葉がでてくるが(9、18、19、20など)
この場合はすべて『旦那様』という一般名詞の主(アドナイ)本来の意味で使われているのだから、YHWHの意味は毛頭ふくまれていないのだ。したがって、ヨセフの物語の中になにか問題がかくされているとしたら、それはどうやら、彼の後半生の話、つまり第四一章から最後の第五○章までの間らしく思われる。
では、このヨセフの物語とくらべて、その一つ前の、彼の父ヤコブの若き日の物語の中にある、共通のテーマとはなにか?
まずヨセフの話の前半が、ほとんど兄弟げんかに終始しているように、ヤコブの話の前半も、兄弟のいざこざが主題になっている。こちらの筋は前に出てきたが、ヤコブの母は、兄息子のエサウを疎んじて弟息子ヤコブを愛していた。そこで、兄弟の父が老衰して盲目になったのち、母子は共謀して父をだまし、エサウが継ぐはずだった家督を、ヤコブにゆずるという誓いを父に立てさせてしまう。
その前に、ヤコブはエサウをもだまして、一杯のスープと交換に、長男の特権を譲ると誓わせていた。こうして二度も誓いが立てられた以上、取り返しがつかないと知ったエサウは怒り心頭に発して、父が死んだら、かならず弟を殺そうと決意する。ヤコブはそれを知って母の郷里、パダンアラム(現代のトルコ国内)の伯父の所に逃げる……大体この辺までがヤコブの物語の前半であって、この部分は主(YHWH)による文章で構成されている。
そして、その後ヤコブは、二十年ちかく伯父の手伝いをして、その間に従姉妹二人と結婚し、カナンの地の父のもとに帰ってくる……。この、後半の部分はほとんど神(エロヒム)を中心とする文章で書かれているのだ」
「ということは」私は、また口をはさんだ。
「さっき出てきた、ヤコブの名前がイスラエルと変えられたという話は、もちろんそのあとの事件ですね(創世記三二-24以下、三五-10)。それなら、その話までも『神』で書いてあるんですか?」
「そう、神(エロヒム)だ」
「でも、おじいちゃんの意見では、名前変えのところは、ヤコブとイスラエルとソロモンを同一の権威あるものとして、みんなに納得させるために、ザドク派が作り変えたということなんでしょう? それならば、主(YHWH)で書かれていなければならないんじゃないんですか?」
「その点はたしかにきみの言うとおりだ。……おじいちゃんの想像では、このヨセフとヤコブの物語の背後には、ダビデ、ソロモン以後、にわかに権力を持ちだしたユダ族とレビ族に対する手厳しい批判がかくされていると思われるのだから、当然、その意志を暗示するためにも、イスラエルに関する物語の部分は、『主』で書かれなければならないはずだ。それをなぜ、『神』で記述しているの
か? これは非常に重大な問題だから、あとで説明することにする。その前に、どうしても、『神』による暗号文を書いた人物が、このヨセフとヤコブの二つの物語の中で、何を言いたかったのかということを、明らかにする方がいいだろう。
なにものをも否定せず
「ヨセフの物語の後半の部分、つまり『神』が中心になっている文章で構成されている部分で、ユダヤ地方の飢饉のため食糧の買い付けにエジプトにやってきた兄たちにむかって、自分が弟のヨセフであることを初めてあかすときに、彼はどんな言い方をしたか。
『私をここに売ったのを、歎くことも悔やむこともいりません。……神はあなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救いをもってあなたがたの命を助けるために、私を、あなたがたより先につかわされたのです。それゆえ、私をここにつかわしたのは、あなたがたではなく神です……』(創世記四五-4以下)
だが、そういわれても、ヨセフの兄たちは、本当に安心することばできなかった。彼らは、父の死後、今度こそ、ヨセフは自分たちに復讐するかもしれないと心配して、ヨセフの前にひれ伏して謝まったが、ヨセフは、さらに彼らを慰めて、その家族たちをも安楽に養っていく約束をする。また、その前のヤコブの物語の場合は、『父の死後、必ず弟を殺してやる』と憤った兄のエサウは、やがて二○年ぶりで妻子をひきつれて、恐る恐る帰ってきたヤコブを、途中まで走ってきて出迎え、ひたすら喜んで、ヤコブが持って来たたくさんの贈物をうけようともせず、抱きあい、口づけして共に泣いた(三三章)――という情景が描かれているのだ。
しかもエサウは、父イサクが死ぬと、ヤコブといっしょに父を葬り(三五-29)、やがて、弟一家のために、父の遺したカナンの地を譲って、自分は一族郎党とすべての家畜をつれて、セイルの山地に去って行った(三六-6以下)ということになっている。
このように、ヨセフとヤコブの物語は、兄弟げんかのあげく、ひどい仕打ちをうけた方が、逆に相手に対して誠心誠意、親切をつくすという点で、全く同じ話だが、言ってみれば、そのくらいの道徳的な教訓は、古今東西の伝説や物語の中に、決してめずらしくはない話だ。それが、永遠の命を得るための修行と、どう関係があるんだろう……と思うかもしれないが、さあ、ここで、さっき疑問が出た、ヤコブの名をイスラエルと変えろといわれた部分が、なぜ、『主』を中心とする文章で書かれずに『神』による文章で構成されたか? という謎を究明しなければならない。
ところで、このあとも、『神(エロヒム)を中心とする文章で構成されている部分を書いた人』のことを話すたびに、『神を(エロヒム)中心とする云々』と言うのは面倒だから、これからは、その人を、仮りに『Xという人物』とよぶことにしよう。
さて、その『Xという人物』が、問題の暗号文を、モーセの五書の中にかくしたねらいは、何だったのだろうか? ――もし、ザドク一派の非道を暴露して世の中の非難をあおり、彼らを打倒するのが目的だったら、ヨセフやエサウのように、こうまで徹底的に、心の底から仇敵を赦すような物語を、神(エロヒム)によって二回続けて書いたりするだろうか?
『Xという人物』は、ザドク派の権謀に対し、ひそかに抵抗して、それを否定する文章を暗号で書きいれてきた。おそらく彼は、なんらかの意味で、ザドクの権謀の被害者の立場にもあったかもしれない。
彼は、神の意志とは、ザドク派が国民に教えようとするようなものではないことを知っている。そして、出エジプト記からずっと、ザドク派の主張を『主』を中心とする文章で綴りながら、『神』を中心とする文章で打ち消し打ち消して、創世記まで来て、ヨセフとヤコブの赦しの物語に来た。……ここで、彼は、にっちもさっちもいかなくなった――と、おじいちゃんは思うんだ。
いいかね悦ちゃん、現在の地位や名誉や財産を捨てて、最も清貧の生活をする……これは、本当に決心しさえすれば、今すぐにでもできる。――自分の体をそこへもっていけば それが、どんなに苦しいものであろうと、極端に言うならば、自分をそれに縛りつけておくことで一日一日が過ぎてもゆく。……だが、赦す、ということは、そんななまやさしいものではない。赦そうと固く決心したのに、消しても消しても頭をもたげてくる憤りや口惜しさが、心にあるままで赦すのは、赦しにならない。それでは天国の奥義を得るための瞑想はできないんだ。
エサウやヨセフが、自分を苦しめた相手に対して、悪い奴だ、憎むのが当然な奴だけれども赦してやるんだ――では、ヨセフもエサウも天国には入れない。そしてエサウやヨセフは『X』自身なんだ。
彼は苦しむ。どうにもならない。あの断腸の、惜しさと不正義への憤りを、すべて忘れて相手を心から赦しきらないかぎり、永遠の命を得るための修行の、第二段階は卒業できないのだ……しかし、どうして赦せるか……。
悦ちゃん、人間は、腹立たしさ、憎らしさだけを忘れようと思っても、それは生理的にできないんだよ。だから、本当に赦すためには、『そのことが善か悪か、正しいか正しくないか』を、区別する心をまったく捨ててしまわなければ怒りや憎しみを忘れることはできないんだ。つまり、赦すことができない。―― 本当の赦しが不可能なんだよ。
おじいちゃんが、Xという人物を想像して、彼が、『ヤコブが改名してイスラエルとなった』というのが、レビ族の捏造と知りながら、もうここでは(三二-28、三五-10)そのことを『主』で書いてレビ族からザドクの子孫に至るまでの権謀術数を批判否定することが、できなくなった――ということが、よくわかるんだ。
ここで、彼はどれほど動揺し、自分の現在やっていることの矛盾に苦しんだか――彼が、このイスラエルの改名のところを、『主』にできなかった、その、しどろもどろと思えるところがあればこそ、(この人は、真剣に苦しんだな?)ということが、おじいちゃんには、ヒシヒシと感じられてくるんだよ……おじいちゃんは、この創世記三二章(28)と三五章(10)に『主』の字が使われずに、『神』の字が使われてあることで、ますます『Xという人物』の実在を確信するのだ。
この話は、多分、今の悦ちゃんには理解できないと思う。だがね、将来、きみがお母さんになって、その子が、今の悦ちゃんくらいになって、家出したとき、きっと、これがわかるだろう。……そのとき、このおじいちゃんはもういない。もしかすると、おばちゃんはマープルおばあちゃんくらいの年になって、なにか、悦ちゃんの子どもに答えているかな?
それにしても、話がだいぶ、あちこちして困ったかね? じゃあ一つ整理するために、悦ちゃんにきいてみることにしよう。
出エジプト記では もっぱら現在の自己を、最底の生活条件におけ――言いかえれば、現在の地位も名誉も財産も、否定せよと教えているとして、その次の、エサウとヨセフの物語では、過去のいかなる恨みも憤りも完全に赦せ――と教えているのだとしたら、第三番目の段階では、どんな修行をしろ、と言いそうだと、きみは想像するだろうか。なんでもいいから、悦ちゃんの思ったとおりのことを、言ってごらん」
「あのう、現在と、過去だから、今度は未来……」
「未来を、どうする?」
「未来を考えない……」
「というと?」
「お金持ちになりたいとか、有名になりたいとか、自分の子どもは、エリートコースを行かせたいとか――そういうことを、なんにも思うな……」
「そうだ、たしかに、そういうことに関係のある物語が出て来てもいいはずだね。おじいちゃんも、まったくそのとおりのことを考えたんだよ。だが、そんなことは、読んで見れば、すぐわかることなのに、なぜ、まえもってわざわざあて推量するのかと思うだろう? それはね、もし、この次に出てくる物語のテーマが、われわれが想像するように、未来への心構えや戒めが書いてあるのだとしたら、創世記の内容は、単なる昔話のよせ集めではなくて、その背後に、なにか整然とした教えが、かくされてあると推定できる可能性が、ますます強くなってくる――と、言いたいからなんだ。
では、そんな空想的なと笑われるであろう仮説が、果たして成り立つかどうか? それをためしてみるために、いよいよこれから、エサウとヨセフの物語が続いた一つ前にある、有名なアブラハムの一代記を、分析することに移ろう
。
わが子を犠牲に供えることを禁ず
「ところでね、おじいちゃんはこれまで、くり返して、モーセの五書の謎解きの鍵は、『神』を中心とする文章によって構成されている部分の中にあると仮定して、話を進めてきた。そして出エジプト記の場合にも、また創世記のエサウとヨセフの物語の場合にも、大体においてこの仮説にもとづいて、かなり手ぎわよく、暗号解読が進んできたかのように、自分では、うぬぼれていた。ところが、いよいよアブラハムの物語になると、少々、勝手が違った、というか、『神』の部分を拾い出しただけでは納得できない話が続出してくるのだ。いったいこれはどういうことなのだろうか? 正直にいうと、さすがのおじいちゃんも、一時は、まったくガッカリしてしまった。しかし、よく考え直してみて、大事なことに気がついたんだ。
それは、例のジャン・アストリックが、はじめて発見した、創世記に出てくるわけのわからないくり返しの問題だ。そのことについては何度も話したから聞きあきてるだろうが、創世記の終りの方から逆読みしてきた場合に、そのくり返しが、はじめてはっきり出てくるのが、このアブラハムの物語からなのだ。だから、これから先は、『主』と『神』の見分け方だけでなく、そのうえに、さらに手のこんだ読み方が必要らしい――ということに、気がついたんだ。
そこでこころみた作業は、というと、これから先は『神』が中心となっている文章を、そのまま鵜呑みにするのではなくて、その文章の内容が、『主』を中心とする内容と同一である場合には、その部は相殺(そうさい)して、そのあとに残った所に何が書かれてあるか、ということを分析していくのはどうか? と考えた。
たとえば第一七章で、神がアブラハムに対して、彼の子孫が永遠に繁栄することを約束しているには違いないが、それとまったく同じ意味のことを、『主』を中心とする文章で構成されている第一二章(1~3)、一三章(14~17)、一五章(5)、二二章(15~18)、でもくり返されているのだから、そのこと自体は永遠の命を得るための奥義をかくした暗号文ではないのだと、解釈する。
……では、その、くり返されている部分を取り除いたあとには、どんな意味のことが、現われてくるのか?
……なんと、それは、アブラハムの生涯の物語の中で、一ばん重要だと思われる、わが子イサクを殺して神に捧げようとした物語だ。これは創世記の第二二章にあるのだが、この部分は、はっきり『神』を中心とする文章によって構成されていて、しかも、『主』によっては、重ねて語られてはいないのだ。
そこで、この物語を、簡単に要約してみると、ある時、神がアブラハムの前に現われて『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で、彼を燔(やく)祭として捧げなさい』(二二-2)と命令した。燔祭というのは、前に言ったと思うが、動物を殺して切りきざみ、それを捧げものとして神の前で焼きつくす儀式だ。それを、アブラハムは、神に命ぜられたとおり、わが子イサクを殺して燔祭として捧げようと決心をした。だが、神は、いよいよアブラハムが刃物をとりあげてわが子を殺そうとした瞬間に、それをさし止めたことになっている。
この話は、あまりにも有名で、ユダヤ教徒やキリスト教徒ばかりでなく、おそらく世界中のほとんどすべての人が知っているほどだと思われるが、この話は、なにを意味するのだろうか? 創世記のこの部分を書いた筆者、例の『Xという人物』は、この物語を通して、なにが言いたかったのだろうか、悦ちゃん、きみは、どう思うかね?」
「それは、アブラハムが、神様のおっしゃることには絶対に疑いをもたないで、従うという信仰の深さが、証明されたんでしょう?」悦ちゃんは、明快に答えた。
「つまり、神が、アブラハムの信仰を、たしかめた、というわけだね? そして、アブラハムは、見事にそのテストに合格したので、そのごぼうびとして、彼の子孫が永遠に、神によって祝福されることになった、というわけだね?」
「はい、そういうことです」
「ところがね、きみが、そうスラスラと答えられるということは、実は、旧約聖書を熱心に読んでいない証拠だよ……」
「……」わけがわからないという顔の悦ちゃんを尻目に、おじいちゃんはニヤニヤしながら、聖書の目次をみている。
「そうだな……まず、申命記を読んでみようか、その中の比較的前の方だったはずだ。うん、これだ――といっても、途中からいきなり読んでは、わかりにくいかもしれないが、ここに書いてあることは……四十年の荒野の旅の末、ユダヤ十二部族の祖先たちが、いよいよこれからヨルダン川を渡って、カナンの地に攻め込もうとする直前に、モーセが主(YHWH)に代って語った数々の戒めの中の一部で、とくにこの部分では、『そこに住む原住民たちは、誤った悪い信仰をもっているから、それを見習わないように気をつけなさい』と言っているわけだ。では、彼らの誤った悪い信仰とはなにか?
それについて、第一二章の三一節には、
彼らは、主の憎まれる、もろもろの忌むべきことを、その神々にむかって行ない、むすこ、むすめをさえ、火に焼いて神々に捧げたからである
と書いてある。そして、その説明のすぐ前には、
『あなたの神、主に対しては、そのようにしてはならない』
という言葉が、はっきり出てくるのだ。
これと同じような内容のことは、申命記のその先(一八-10)にも、列王記(一六-3、二一-6、二三-10)にも、エレミヤ書(三二-35)にも、エゼキエル書(一六-20)にも、ミカ書(六-7)にも出てくるから、あとで、ゆっくり読みなさい。要するに、少くともユダ王国の末期ごろから以後のユダヤ教では、いかなる理由があるにせよ、わが子を殺して火に焼いて神に捧げるというのは、絶対に禁じられていることだったのだ。にもかかわらず、事もあろうに神がわざわざアブラハムに、わが子を燔祭として捧げろと命令したという物語が、創世記に現われるのは、どういうわけだろうか?
権力と世襲
「それに対して、一部の学者は『ユダヤ教で、わが子を火に焼いて神に捧げることが禁じられたのは、ずっと後世のことで、アブラハムのころ、どころか、ユダ王国とイスラエル王国が分裂してから後までも、その慣習は続いていた。だから、アハズ王やマナセ王が、平気で、そういうことをやったのだ』と説明している。
そうなると、この、アブラハムがイサクを神に捧げようとした話は、いつごろ、誰が書いたものなのだろうか? ということが、重要な問題となってくる。例の聖書批判学では、『この部分こそ典型的なエロヒストが書いたもの(つまり紀元前八世紀ごろに北部のイスラエル国内で書かれたもの)だ』というのが、定説になっているようだ。
だが、もし、そのころからすでに、この話が広く知られており、また、記録されていたものだったとしたら、前に挙げた列王記や紀元前七三○年ごろに語られたといわれるミカ書、紀元前五○○年前後に語られたというエレミヤ書、そして、それよりさらにおくれて語られたはずのエゼキエル書の中などで、わが子を殺して火に焼くことを徹底的に非難しているのに、創世記の中のアブラハムのことについては、これらの書物の著者が誰一人、触れていないのは、なぜだろうか? ことにエレミヤ書(三一一l錨)では、主(YHWH)の言葉として、
『わたしは彼らにこのようなことを命じたことはなく、また彼らがこの憎むべきことを行なってユダに罪を犯させようとは、考えもしなかった』
と、述べているのは、どういうわけだろうか?
この疑問を、どこまでも掘り下げてゆくと、面白い問題が、どっさりあるのだが、この問題に関して、うっかり首をつっこんだが最後、話がおそろしく込みいってしまうから、今はあまり深入りしないことにして、ごく単純に筋を通してみると、このアブラハムがイサクを神に捧げようとした物語は、最終的にモーセの五書が今日の内容のものになった時、例の『Xという人物』の手によって挿入されたということが考えられる。
それにしても、その当時のユダヤ教の教義と矛盾する話を、あえてここに挿入した筆者は、いったい、なにを言おうとしたのだろうか?
ここで、またまた思い出してもらわなければならないのは、ジャン・アストリックが『創世記に同じ話が、二回以上くり返されている例が多いのは、おかしい』と指摘して以来、非常に多くの学者がその内容の分析をはじめるようになったわけだが、そもそもなぜそのようなことが起こったのか?
という原因については、あまり深く詮索されていないようだ。だが、おじいちゃんにとっては、そこは、重大な問題なのだ。
モーセの五書が、いくたびか加筆されたり、時には思い切って訂正された際に、もし、異った資料があることを重要視したのだったら、当然、編集者は、その二つを並べて書いて、『こういう異説もある』と述べるか、あるいは、より適切に表現してあると思う方を、一つだけ択(えら)ぶかの、どちらかにすべきではないだろうか? しかし、創世記には、その同じ話を、わざと飛び離れた所に配置したりしてさりげなく、挟み込むために骨を折った跡さえ感じられるというのは、どういうことなのだろうか?
それについては、今後、もっともっと多くの学者が、多面的に慎重な研究を重ねた上で結論を出すべきだと思うが、かりに、おじいちゃんが想像するような『Xという人物』が存在して、反ザドク派的内容を、暗号文で書き込んだとしたら、アブラハムがわが子を神に捧げようとした、という話は、何を意味するか? おそらくそれは、ザドク一派が強烈に主張するところの、『ユダヤ民族は、永遠
にユダヤ教の祭司によって支配されるものであり、そのユダヤ教の祭司とは、レビ族の中でも、アロン以来、連綿と伝わるザドクの直系にかぎる――』という主(YHWH)のお告げなるものを、根底からくつがえそうとした――つまりザドク一派の祭司職の世襲制度に対して真向から反対する意味で、書かれたものではあるまいか? ――と、おじいちゃんに考えられるのだ。
しかし、そうだとしても、そのような反ザドク的内容を、あからさまに書き加えることは絶対にできない。そこで『神はアブラハムの信仰心を試して、イサクを焔約祭に捧げろと命令した。アブラハムは、素直にその命令に従おうとしたので、神はその真心を嘉(よみ)してアブラハムの子孫が永遠に繁栄し、やがては全世界を支配するようになることを約束した』という物語を書いてみせた。
何度も言うとおり、創世記の中には、アブラハムの子孫が繁栄するという主(YHWH)の約束の話は、たびたび出てくるが、なぜ、神がそういう約束をしたかという理由については、ここのところの物語が、最も筋が通っているように感じられる。しかも旧約聖書を表面的に読むかぎりでは、アブラハムの子孫が全世界を支配するということは、当然レビ族の子孫であるザドク一派が、世界を支配するという意味になるのだから(なぜならば、サウルの一門が滅びた時、まず第一にベニヤミン族が無力化し、次に十部族がアッシリア帝国によって絶滅され、最後に捕囚以後はユダ族の王家も跡が絶えてしまった以上、その正統の家系が連綿と継続しているのは、ただ一つレビ族のザドク一家だけな るのだから)ザドク派の人びとはこの主(YHWH)がアブラハムのわが子を捧げようとした心を賞(しょう)して、子孫繁栄を約束されたという物語を挿入することには、大満足だったにちがいない。
ところが、あにはからんや、この部分の執筆者、おじいちゃんが想像する『Xという人物』は、第二二章の後半(15以下)の
『わたしは、自分を指して誓う。あなたが、このことをし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは、大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜辺の砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また、地のもろもろの国民は、あなたの子孫によって祝福をえるであろう。あなたが、わたしの言葉にしたがったからである』
という言葉を、神(エロヒム)ではなく、『主(YHWH)は言われた』という言葉でくくることによって、(この部分は、神の本意とは正反対である)と、暗に告げていることが、わかるのだ」
「あの……」悦ちゃんが、なにか言いかけた。
「ちょっときいてもいいですか?」
「ああ、どうぞ」
「さっきの話では、Xさんは、ヤコブがイスラエルになったところを『主』で書けなくなったんでしょう? でもまた書けるようになったんですか?」
「なるほど、そこのちがいは、デリケートでむずかしかったかな?
Xという人物が『イスラエルとヤコブは同一人だという主張』を否定するのは、ザドク派の謀略をけしからんことだ、と憤って否定することだった。この、アブラハムの子孫繁栄の話を『主』でしめくくって否定したのは、『Xという人物』が自分の書いた物語を、『ここを素直には読まないでください』というサインなんだ……。
だが、それにしても、エサウやヨセフの物語のところでも言ったとおり、おじいちゃんは『Xという人物』が、ただ単に、ザドク一派を呪ったり非難したりするだけのために、このような手の込んだ危険きわまる作業をしたとは思えない。それどころか、『Xなる人物』の必死のねらいは、大切な奥義の秘法をこのモーセの五書の中にかくすこと――つまり、永遠の命を得るための修行を一歩々々積み重ねて行く、その逆すじを、さし示すことにあったはずだと、おじいちゃんは信ずるのだから、したがって、このアブラハムの物語の裏にかくされている真のテーマは、さっき悦ちゃんが言ったことも含まれる、『子孫繁栄などということを考えるな』とか『未来に対する期待や欲望を否定せよ』とか『未来のことを一切考えるな』ということであって、数千年来、全世界の人びとから深く信じられてきた、いわゆるユダヤ民族の選民思想とは、むしろ正反対の意味のものだったと思うんだ。
したがってもし、おじいちゃんの仮説どおりに読むとすると、前にも言ったように、出エジプト記で説いていることは、現在の地位や名誉や財産を投げ捨てて荒野の中の清貧生活に甘んじる修行、そしてその次は、過去の恨みや悲しみを忘れるばかりでなく、是非や善悪を思う心をも消し去る修行、そして第三段階では、未来に対する一切の願望を捨てる、ということが読めてくる。
こんなことをいうと『それは、あまりにもひどいこじつけだ』と、憤慨する人があるかもしれないが、実はこのアブラハムの一代記の中には、彼の子孫が永遠に繁栄するという話のくり返しだけではなく、そのほかにも、創世記の第一六章と二一章(8以下)には、アブラハムの最初の子イシマエルと、彼の生みの母ハガルが、荒野をさまよって死にかける話が、そっくり二回くり返されており、さらに複雑なことには、第一二章(10以下)と第二○章に、アブラハムが、妻のサライを妹だといつわった話がくり返されているうえに、第二六章(6以下)では、それとまったく同じ話が、アブラハムの子イサクと、彼の妻リベカのこととして出てくるのだ。
しかも、そのような似た話のくり返しの謎をさぐってゆくと、そこにもまた、『未来に対する希望や欲望を否定せよ』とか、『子孫の繁栄を思うな』という意味としか考えられないような謎解きのヒントが浮き出てくるのだ。
……しかし、その説明をするとなると……」と言いかけて、おじいちゃんが、ちょっとためらいを見せたときに、またまた扉がドカンとあいて、さっきの老会長が、例によってずかずかと入ってきた。そして、あとからついてきた義足の水田さんが、重そうなダンボール箱を入口の土間におろしかけている。
「おいおい、そんな所においちゃダメだ。こっち、こっち……」おやじさんは、こちらが目下、話の真最中の様子など、全然おかまいなしに、われわれのテーブルのすぐそばまで踏み込んできて、部屋の床のまん中へんを指さした。
第三章 ノアの洪水のかげに
クロレラ鰻頭
「これ、先生へプレゼントだが、ダンボール箱はもって帰る。一箇でも、われわれの商売ものだからね」
蟻の会の老会長は、そう言いながら、自分が大事そうに持ってきた鶏卵を私に手渡してから、古ダンボールの箱をむぞうさにひっくり返して、中身を床にぶちまけた。チーズ、バター、うどん、缶詰、食パン、牛乳、野菜……食料品屋の見本のような品物が、ごろごろと、あたりに散らばる。
私が、それを一つ一つ調理台の方へ運びはじめると、手伝おうとして立ちあがった悦ちゃんが、「わァ、キャンプにでも行くみたい」と歓声をあげた。おやじさんは、じろっと見て、「お前さんのようなわがまま娘が、どうなったって知ったこっちゃないがね、先生に死なれちゃ、こっちが困るから持ってきたんだ」
悦ちゃんは、はっとして持ちかけたものを床に戻した。そして一度姿勢を正してから、誰にともなく最敬礼して言った。
「剛情はって、すみませんでした。断食はやめます」
「……といったって、変な青いパンだけじゃ、命がもたないからね……肉や魚はどうせ食わなかろうと遠慮したが、たまごや牛乳ならいいだろうと思ってね」
老会長は、勝手につぶやくように言い、「じゃあ」と言ったときは、背を見せて、戸口の方へ歩きかけている。水田さんは、たたんだダンボール箱を小脇に、義足を大巾に運んで、さきに扉をあけた。おじいちゃんも、二こと三こと、お礼らしい言葉を言いながら、戸口まで出て行った。
外は相変わらず日ざしが強いが、かすかに雷の音が聞こえる。
「夕立ちが来るかもしれませんね」とおじいちゃん。
「ざあっときてくれればねえ」
おやじさんの声が消えておじいちゃんが部屋にもどってきた時、部屋の隅の調理台の上は食糧の山になっていた。
「これ、みてください、キウリにトマトに、廿日大根までありますよ、どうします?……なにか、久しぶりでちょっと作りますか?」
「そう、折角の好意だから、牛乳と蜂蜜でも……」
「じゃあ食パン焼きますか?」
「いや、食パンはだめです。クロレラ鰻頭でなければいけない。悦ちゃんにも、それ食べてもらいなさい」
「じゃあ、いそいで卵焼きでも?」
「クロレラまんとうのほかは、牛乳と蜂蜜だけです」問答無用とばかりに言って、おじいちゃんは、ゆっくりとテラスへ出て行った。
支度というほどのこともない食事の支度を、手伝ってくれる悦ちゃんに、私はささやいた。
「……何日も断食すると、そのあとは、重湯(おもゆ)から食べはじめるの。悦ちゃんの断食は、まだ一日にはなってないけど、それでもこんなに長い時間食べなかったの、生まれてはじめてでしょう? そんなとき、なにやかや急に食べると体を壊すからって、おじいちゃん心配して、パンと牛乳と蜂蜜だけって言ってるんだと思うの。だから気を悪くしないでね」
悦ちゃんは微笑してうなずいた。
「お食事をどうぞ」……私が声をかけても、おじいちゃんは気がつかないのか、大川の水面を見つめたままだ。その枯木のような後姿は、なんとなく厳しく、重ねて呼ぶのをためらわせた。が、やがて席にもどってくると、「悦ちゃん、この緑色のパンは、なんだかわかるかね」という。
「あら、クロレラのことは、今朝、話しましたよ」
「おばちゃんは、それだからいけない……。あの時は悦ちゃんは興奮していて、何も聞いちゃいませんよ……」
そういって、おじいちゃんは、またクロレラの説明をはじめた。クロレラは単細胞の藻の一種であり、水の中で、太陽の光をうけるだけで急速に繁殖すること、成分は半分以上が蛋白質で、ビタミンAの含有が多く、他にもいろいろの大切な微量成分があること、二○世紀末から二一世紀へかけての、全世界の食糧事情が深刻化する予測に対して、非常に早いサイクルで大量生産できる可能性があるクロレラは、蛋白質不足を解決するホープの一つであること、さらに、将来の、宇宙旅行のロケット内で、食糧としてばかりでなく、水や空気の浄化にも役立てられること……だが、それほどすぐれた条件を持っているクロレラを、本当に食糧としては、まだ試してみる人がないので、われわれが、その役目を買って出て、目下のところ、クロレラ食以外、口にしていないこと……などを、おじいちゃんは、ていねいに説明した。なるほど、ひととおりは今朝、私が話したはずなのに、悦ちゃんは、ほとんど初耳のような様子で聞いていた。
「そういうわけで、今、悦ちゃんの目の前にあるこの緑色の蒸しパンが、そのクロレラ食だ。もう少し、くわしく、おばちゃんから聞きなさい」
私はあまり気乗りがしなかったが、一日の蛋白質の必要量から逆算して、二○パーセントのクロレラを、小麦粉にまぜること、油脂分がないから、これる前に油を入れること、他にうどんにしたりパンに焼いて携行食にもするが、今日のパンはまんとう仕立てであること、もうすぐ満二年になって、その間、他のものを食べないから、いろいろ微量成分が体に不足していると思うが、今のところ手のひらが少し黄色みをおびたほかは、体の故障は自覚していないこと、将来、食糧秘として一般化するときは、当然、これだけ食べるのではないから、心配はいらないと思うこと、などを話した。
「そんな大事な実験、ほかの人たちは、やらないんですか? 蟻の街の人もやってるんですか?」
「ええ、計画はあったのね、おじいちゃんは、蟻の街の中にクロレラの培養とクロレラ食の研究所を本格的に作るつもりだったの。それで、まず第一に食糧をできるだけ安くすることができれば、その研究は蟻の街の経済の基礎を、強固なものにできる可能性があることだし、それは、やがて世界の貧しい人びとが蛋白質をもっと豊富にとれるようになるためにも、大きく役立つことだということなのね。さっき見えた会長さんも大賛成だったんだけれど、蟻の街の中から反対が起こってね、それというのが、おじいちゃんが、売名のために、そんなことをみんなに強いるのだと思った人があったらしい……それで、おじいちゃんは、蟻の街の中にゴタゴタが起きるのを心配して、はじめの計画は中止。結局、われわれ二人だけでやることになったわけ。それで、はじめの計画のクロレラ大培養池が、 あそこに並んでいる五つの盥(たらい)に化けてしまいました。……おしまい」
悦ちゃんの目が、輝いた。
「じゃ、今日から、私を仲間に入れてください、私もモルモットになります」
「ありがとう、悦ちゃん!」私の頭の隅で、この子は今、お母さんたちが、もうそこまで迎えに来てること、忘れてるんだわ――と一瞬思ったにもかかわらず、感激して彼女の手を握っていた。
「この二年の間に、新聞や週刊誌の人が何度も来たりして冷やかし半分の人はいたけど、いっしょにやるっていったの、悦ちゃんが初めてよ。……でも、本当にこのクロレラまんとうが食べられるかどうか、ためしてごらんなさい……」
緑色のまんとうを盛った籠から、その一つを、悦ちゃんが自分の皿にとったとき、おじいちゃんが横から声をかけた。
「ちょっと待った。食べる前に是非とも話しておかなければならないことがある……。さっき、アブラハムの話をしかけてる途中で邪魔が入ってしまったが、その続きは、もし時間があったらあとでするとして、実は、アブラハムの物語の次に話さなければならないノアの大洪水の物語と、この、クロレラ食の実験との間には、深い関係があるから、食べるまえに、ほんの少し、そのことを聞いてもらいたいのだ」
悦ちゃんも私も、しかたなく、両手を膝に置いた。そのとき突然、猛烈な空腹感が、私の背中のド真中からつき上がってきた。悦ちゃんのおなかは、もっともっと空っぽのはずだ。
だが、おじいちゃんは、無情にも、まえ以上の勢いでまくしたてはじめる。
ギルガメシュはなぜ旅に出たか
「創世記を逆に読んで行くと、本当はアブラハムの物語の一つ前は、バベルの塔の話だね、そして、もう一つ前が、ノアの大洪水。それからカインの弟殺しの話、そして一ばんはじめが天地創造の物語になっている。……だが、ノアの大洪水の物語の前後にあるバベルの塔とカインの話を調べてみると、両方とも完全に『主』によって構成されている文章であって、『神』という言葉は、ひとことも出てこない。だから、もし、創世記の暗号文が、いわゆるサイファー式でつくられているとすれば、このバベルの塔とカインの話は、埋め草らしいということになる。したがって、その部分は飛ばすことにすると、あとに浮かび上がるのは、大洪水の物語だ。
この話は、あまりにも有名だが、物語のあらましは、天国を追われたアダムとエバや、その子のカインの話などがあった後に、人間の世界にはますます悪がはびこって、どうにもならなくなる。そこで神は、人間ばかりでなく、地上に住むすべての生物を絶滅してしまおうと考える。だが、そういう時代にも、ノアという人物だけは正しい道を歩んでいたので、彼に箱船をつくらせ、その家族とすべての生物の種となるべきものだけをえらんで、それに乗り込ませる。やがて四十日間、雨が降り続いて大洪水になり、すべての山々まで、水の底に沈んでしまう。箱船に乗ったもの以外の生物は、ことごとく死に絶える。
さて、その後、神は、かろうじて生き残ったノアの家族をはじめ、彼とともに助けられた生物にむかって、『今度は、このような天災を与えないから、安心しろ』と告げる。……こうして地上には、あらためて新しい世界の歴史が始まったというわけだ。
この物語を、例によって『主』による文章と、『神』による文章とに区別してみると、第六章から第九章にかけて、『主』による部分(六-1~9A、七-1~6、七-16B~24、八-20~22、九-18以下)と『神』による部分(六-9B~22、七-7~16A、八-1~19、九-1~17)が交互に入りくんではめこまれている。しかも不思議なことに『主』の部分だけを拾い出して読んでも、『神』の部分だけを読んでも、話の筋はほとんど変わらない。但し、強いて言えば、『主』による物語は、やや大ざっぱだが、『神』による物語の方が、筋書きがくわしいという違いはある。
となると、ここでもアブラハムの物語のときと同様、『主』の文章と『神』の文章とが同じことを言っている所は相殺して、あとになにが残るかということが問題になるわけだが、この、ノアの洪水の物語を分析するにあたって、その前に是非とも知っておかなければならない、大事なことが、あるのだ。
話は、いきなり現代に近くなるが、時は、一八七二年、所はロンドンの大英博物館の一室……」
急におじいちゃんの調子が、芝居かなにかの口上じみたからだろう、悦ちゃんがウフッと笑う。
「ある日、ジョージ・スミスという名の若い職員が、いわゆるくさび形文字を書きつけた粘土板を調べていた。……その昔、アッシリア帝国の首都だったニネベの遺跡から発掘された粘土板だ。……彼はその中の一枚に、ちょっと気になる言葉があることを発見したのだ。
それは、ほんの断片的な文章にすぎなかったが、要するに物語の主人公が『空に鳩を放したが、おりる所がないので、船に舞いもどった』という意味の言葉だった。しかも、その前後を調べてみると、その物語の主人公が乗っていた船は『ある山の頂上にとまっていた』ということが書いてある。その文章から、ジョージ・スミスは、すぐ創世記の、
箱船は七月一七日にアララテの山にとどまった……ノアはまた、地のおもてから水がひいたかどうかを見ようと、彼の所から鳩を放ったが、鳩は足の裏をとどめる所が見つからなかったので、箱船のノアのもとに帰ってきた。水がまだ全地のおもてにあったからである(八-4~9)
という文章と、非常によく似ていることに気がついた。
それにしても、この楔形文字で書かれている文章の山の名は、『アララテの山』ではない。――ということは、大昔のメソポタミヤ地方には、ノアの箱船とそっくりの大洪水の物語が、伝わっていたのではないか? そして、ひょっとしたら、それは聖書の洪水物語よりも、古い起源をもっているのではないか? という想像が、ひらめいた。
それから後のスミスの劇的な運命をくわしく話しはじめると、非常に長いストーリーになってしまうから、結末にとぶが、これが、紀元前三千年代の初期に、メソポタミヤ地方にいたと伝えられるギルガメシュという英雄のことをうたった叙事詩であることが、判明した。そして例の大洪水の物語は、その後半に出てくる一部なのだが、
・大洪水があることを知らされて大きな船を作りその船が山の上でとまったこと
・何回も鳥を放して水のひき具合を調べたこと
・洪水が終ってから、生き残った者が、神に感謝の祭りをしたこと
など、そのおおかたが、ノアの洪水の物語そのままなのだ。いったいこれはどうしたことだろうか?
――それ以来 聖書研究家の間に、いろいろの説が競われることになった。
たとえば、ユダヤ民族の祖先といわれるアブラハムは、元来メソポタミヤ地方から移住してきたのだから、この大洪水の物語は、そのころからすでに、自分たちの祖先の伝説として、口伝えにしており、その後モーセの五書を最初に成文化した、いわゆるヤハウィストは、その伝説を、まったくユダヤ民族独特の伝承だと信じて書いたのだ――という説をとなえる学者もある。
だが、問題は、その説明だけでは解決しない。なぜならば、さっきも言ったとおり、創世記のノアの洪水物語は、あきらかに『主』を中心とする文章で構成されている部分と、『神』による部分が重複しているわけだが、『神』による部分が執筆されたのは、捕囚時代以後なのだから、その部分を執筆した人、あるいはその先輩たちは、捕囚期間中、問題のメソポタミヤ地方にとらわれて行って、その附近で数十年を暮らしていたわけだ。したがって、その当時、その地方で非常に有名だったギルガメシュの物語を、くわしく耳にし、あるいは読んでいないはずがないのだ。
とすると、この大洪水の物語が、ユダヤ民族固有の伝説ではないことを、百も承知の『Xという人物』が、それ以前に成文化されてあったと思われる『主』による文章で構成されている、もとのノアの洪水の物語と、ほとんど変わらない筋書きのものを、わざわざことあらためて、『神』を中心とした文章によって書き加えたのは、なぜだろうか?……どうしても、従来の学者たちの説明では納得できないものを、おじいちゃんは感じるのだ。
そこで、この話の裏に、どんな秘密がかくされているかを解明するには、ギルガメシュの物語を、もう一度、ていねいに調べなおす必要があるわけだが、今、さしあたっては、このギルガメシュの物語の、一ばん肝腎かなめの主題はなにかということだけに触れることにしよう。
そもそも、このギルガメシュという英雄は、半分神で半分人間ということになっているのだが、若いころは、ただがむしゃらに強いだけで、自分の将来などということを、まるで考えていなかった。
ところがある時、白分の親友の死を目のあたりに見て、やがて自分も死ななければならないことに、はじめて気づいて、がく然とする。そこで彼は、永遠の命を求めて旅に出ることになる。だが、どこへ行っても、永遠の命を得る方法を教えてくれる人間に、出会うことができない。しかし、最後に彼はウトナピシュティムという人物に出会う。このウトナピシュティムという人物こそ、大洪水のと
きに、神のお告げによって、前もって船を用意してあったために、生き残れた人間だったのだ。
つまり、前に言ったジョージ・スミスが発見した楔形文字による大洪水の話は、このウトナピシュティムが、ギルガメシュにむかって『自分が、いかにして大洪水から逃がれて生き残ることができたか?』というてんまつを物語った部分だったのだ……ということは、この大洪水の物語の主題は、ただ単に『正しい人が、神の加護で助かった』というだけの話ではなくて、むしろ、永遠の命をさがし求める旅の物語だったのだということがわかる。
ところで、ギルガメシュは、その後どうなったのかというと、この、ウトナピシュテイムから、大洪水の話を聞かされたあとで、不老長寿の霊草のありかを教えてもらい、めでたくそれを手に入れたのだが、その旅の帰り道で、その霊草を蛇に奪われてしまう。――というわけで、結局ギルガメシュは、永遠の命を得ることが、できなくなってしまうのだ。
この、半分神で、半分人間であるギルガメシュが、蛇のおかげで永遠の命を得そこなったという話は、アダムとエバが、蛇に誘惑されてエデンの園を追われた話から、ノアの洪水へと読んでくると、順序がまったく逆だが、出エジプト記からアブラハムの話、そしてノアの洪水へと逆読みをしてゆくと、どうも偶然の一致とは思えないものが、強く感じられるわけだ。
だが、それはともかくとして、……悦ちゃん、おじいちゃんは最初から、永遠の命を得るための秘法が、聖書のどこかに、暗号でかくされているのではないかということを、これまで、くどく繰りかえしてきたね。しかし『それは、おじいちゃんの、単なるあて推量と、こじつけなんじゃないか?』と、心の中では、いくぶん疑っていたに相違ないと思うのだが、正直なことをいうと、おじいちゃんは、このギルガメシュの物語の、ほんとうの主題が、永遠の命を得ることだった、という重大なヒントがあったればこそ、モーセの五書は、聖書批判学者のいうような、ただの昔話のよせ集めではなく、実は永遠の命を得るための奥義書に、ちがいないと、信じつづけてきたのだ。
さあ、ここまでくれば悦ちゃんにもわかるだろう。例の『Xという人物』は、彼がモーセの五書の中にかくした暗号の主題は、永遠の命を得るための秘法だということを、後世の人に悟らせるために、『主』が登場するノアの洪水の文章に、ギルガメシュのストーリーを一層詳細に『神』で書いた文章を重複させ、『ノアはギルガメシュの焼き直し』であることを、あえてはっきりさせたのにちがいない。のちに一九世紀になって、ロンドンの大英博物館で、粘土板の楔形文字の文章に、ギルガメシュの叙事詩を発見したジョージ・スミスは、創世記に神(エロヒム)で書かれたくわしい方の洪水物語があったからこそ、同じ話がそれより早く、メソポタミヤ地方にあったことを、発見できたのかもしれない。
となると、ここでまたまた、ややこしいことになるのだが、……今までは『主』と『神』の文章にある内容のちがいを追究してきた解読法が、このノアの箱船の物語では、『Xという人物』がギルガメシュ物語から抜粋して構成した洪水物語の内容と、もともとのギルガメシュの叙事詩の中のウトナピシュティムの物語とをくらべて、その相違点がどうなっているかを、調べることが必要になりそうなのだ。まあ、本来、謎解きというものは、謎をかける人が一段一段、問題を難しくしていくことで、最後まで解きあかせる人間をえらび出すのが目的だったものなんだから、面倒くさがったり、簡単に降参しては、なんにもならないんだよ……では、『Xという人物』がかけた謎とはいったいなにか?
なんじ殺すなかれ
「くり返して話してきたとおり、ウトナピシュティムが船に乗り込んでから大洪水が引くまでの話は、ノアの場合とあまりにもよく似ている。そればかりでなく、両方とも、船から出た後に、神にむかって感謝の祭りを行なっている点までも、まったく共通だ。だが、聖書びいきの学者たちは『ギルガメシュの物語に登場する神々は、いわゆる多神教の神々なのに、旧約聖書の神は、まったく唯一の神で貫いているのだから、話の筋みちは似ていても、主題が、まるきり異っている』と主張する。
しかし、おじいちゃんには、『Xという人物』が、ただ、それだけのことを表明するために、わざわざノアの洪水の話を、重ねて書いたとは考えられない。そこで、この問題の謎解きの鍵になるのは、『生き残った人間や動物が、船から降りた後に、神が、何を語ったか』ということ(創世記 九-1~17)だと思うのだが、話をわかりやすくするために、今かりに、そこに述べられている内容を、要約して拾い出してみると、
まず第一に神は『生めよ、ふえよ、地に満ちよ』という、祝福の言葉を述べる。それから、今後は、生きもの(つまり鳥も獣も魚も、その他すべての生きもの)は、人間の支配に服し、すべての生きものが、人間の食物になるということ、但し、肉は食べてもいいが、血のついたままのものを食べてはいけないこと、さらにつけ加えていかなる人の血を流してもいけない――そのようなことをした人に対しては、かならず罰を与えるということ、そして、最後に、人間ばかりでなく、すべての生きものにむかって、『再び洪水によって滅ぼすようなことはしない』という約束をする。
……まあ、大体、こんなことを、神は、ノアとその家族に語ったことになっているわけだが、ここで、おじいちゃんにとって少々気になるのは、人間の血を流してはいけないとは言っているが、人間以外の動物を殺すことについては、全然、問題になっていないということだ。それどころか『すべて生きて動くものは、あなたがたの食物となるであろう』とか、そのすべての生きものが、『恐れおののいてあなたがたの支配に服し……』(九-2)などとも言っている。したがって、この部分の神の言葉を表面どおりに受けとれば、この地球上で、人間だけが幸せで、豊かに、楽しく生活できさえすれば、その他の生きものが、いかに不幸であっても、さしつかえないと、神は思っているかのように見える。だが、創世記のこの部分を書いた人、つまり『Xという人物』は、ほんとうに、それが神の意志だと、信じていたのだろうか? 悦ちゃん、きみは、どう思うね?」
「ええ、そういわれれば、少し、変な感じもするけど……でも『すべて生きて動くものは、あなたがたの食物となるであろう』と、はっきり書いてあるんだし……」
「だがね、もし、それほど絶対的に、人間中心の考え方をしていたのなら、なぜ、『すべての動物が、おそれおののいて……』というような、動物の気持ちにまで立ち入った言葉を使ったのか? そこのところが、どうもおじいちゃんには、納得できないのだ。……そこで、もう少し、くわしく調べてみると、例の、『すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう』という言葉のすぐあとに、『さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしは、これらのもの(すべての生きもの)を、みな、あなたがたに与える』という言葉が続いているね。……さあ、問題は、ここだ。
これで見ると、神が人間に、すべての動物を食べていい、と許したのは、ノアの洪水以後のことであって、それまでは、青草しか、食べることを許していなかつた――ということになるわけだ。……しかも、そのことについては、このあとくわしく話すことになる創世記第一章(29)の天地創造のところでも、
神はまた言われた。『わたしは全地の表にある、種をもつすべての草と、種のある実をむすぶすべての木とを、あなたがたに与える。これは、あなたがたの食物となるであろう。また、地のすべての獣、空のすべての烏、地に這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物として、すべての青草を与える』
という言葉が出てくる。
要するに神は、ノアの洪水以前は、人間ばかりでなく、動物に対しても、肉食を許していなかったことになる。いったい、これは、どういうことだろうか? もし、ほんとうに神が、それまで人間に青車しか食べることを許していなかったとすれば、なぜ、ノアの洪水の事件を契機に、それから以後は、急に肉食を許すことになったんだろうか?……さあ、悦ちゃん、ここからが、暗号解読の、一ばん肝腎かなめの山場なんだが、きみがもし、推理小説に登場する名探偵だったら、この謎を、どう解くだろう?」
「……全然、見当つきません」
「じゃあ、一つだけヒントをあげよう。旧約聖神の暗号はサイファー式で解くら
しいということは、今までに、何度も言ってきたね」
「ええ、だから、あとの方からだんだんに、はじめにむかって読んできました……」
「そうだ、その逆読みということが、ここでは非常に重大なんだ……」
「?……ノアの洪水のあとで肉食が許されて、その前は、許されていない……」
「それを時間的にひっくり返して、過去と未来を逆に考えると?」
「前にゆるされていたことが、あとになって許されなくなる……」
「その許されたり、許されなかったりする相手の人物は、いったい、誰だろう?」
「……あっ、わかった……永遠の命を得るための修行をする人は、今までは肉食を許されていたけれど、これからは、生きものを食べてはいけない、ということ」
「そうなんだ。たしかに、おじいちゃんの推理では、そうなるわけだ。……だが、それにしても、この物語が成文化された当時はもちろんのこと、それから何千年もたった今日でも、ユダヤ人は、豚や、うなぎのような鱗のない魚以外の動物は、ほとんどなんでも食べているし、ことに、そのころのザドク一派の祭司たちは、犠牲として捧げられる肉類を食べることが、一種の義務とさえなっていたのだから、的のいかんにかかわらず、『一切、肉食をしない』というような考え方が、ユダヤ人の思想の中に、ありうるだろうか? という疑問が当然、おきるはずだ。……ところがね、おじいちゃんの旧約聖書暗号解読の上で、第一の手がかりとなった、ダニエル書の……第一章に……くわしくは、あとで読めばいいとして、要するに、ダニエルは野菜と水だけしか口にしなかったことが、はっきり書いてある。もっとも、学者の間では、ダニエルなどという人は実在しなかったといわれているが、おじいちゃんは、旧約に登場する人物の中で、ダニエルこそは実在の人物だと思っているくらいだ……まあ、そんなことは別問題として、ダニエル書のこの部分を書いた人は、『ダニエルのようなすぐれた霊能者となるためには、肉食をすべきではない』と、固く信じていたのではないだろうか?
となると、創世記第九章のはじめで、神が人間にむかって『これから後は、あらゆる生きものを殺して食べていい』と言っていることは、実は、永遠の命を得るための奥義をもとめる人物に対して、『今からは、絶対に肉食をしないように』と戒めていると解釈できるわけだ。
だが、それにしても『Xという人物』が、なにゆえに『永遠の命を得るための修行には、肉食を禁じなければならない』と主張しているか、ということと、この、クロレラ食との間には、どんな関係があるか? について、是非、知ってもらいたいのだが、今、その話をはじめると、問題がこみ入りすぎるから、その前に、奥義中の奥義がかくされてあると考えられる天地創造の物語の分析を、先に
することにしよう。
第四章 天地創造の奥義
パラダイスの木の実
「さっきも言ったとおり、ノアの洪水の一つ前の物語は、カインが弟を殺した話だ。だがこの部分は、全部、『主』の文章だけで構成されているのだから、これは、飛ばして行く。そこでいよいよ最後に残るのは、天地創造と、エデンの園におけるアダムとエバの話だけになる。ところが、ここでもまた、『主』による文章で書かれている部分と、『神』による文章で書かれている部分を区分けしてみると、大体二つの話に分けられるばかりでなく、なんと、意外にも、この世の始まりの物語が、まったく異なる表現によって、二度くり返されていることが、はっきりしてくるのだ。
いうまでもないが、その第一は、創世記第一章一節の『はじめに神は天と地とを創造された』からはじまって第二章四節の、『これが天地創造の由来である』で終る物語だ。そして、この部分の文章は、すべて『神』で書かれている。
ところが不思議なことに、第二章の四節の後半から、
主なる神が地と天とを造られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草も生えていなかった……
という話がはじまり、それ以後は、俄然、『主』が中心の文章にかわる。そして、『主』は、まず第一に人間の男を造り、それから草木を造り、さらに烏や獣を造ってから、一ばん最後に人間の女を造ったことになるわけだ。
しかし、前の、第一章では、神が三日間に植物を造り、五日目に魚と鳥を造り、六日目に地上のすべての生物をつくり、そして最後に人間の男女を、同時につくった――と書いてある。……こうなると、第二章の話は、第一章に続いている文章ではなくて、まったく別の筋書きの、天地創造物語だということになる。しかも、この節二章以下の話は、その大部分が、『主』による文章で構成されているのだから、暗号解読の対象としては、一応、第一章のはじめから第二章四節の前半の部分まで、ということにしていいだろう。
ただし、そのあとの第三章には、五回ほど神という言葉が出くる。しかも、そのどれもが、かなり重要な意味を含んでいるらしいのだが、今は、その中でも、特に重要だと思われる、一ばん最後の、『神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビンと回る炎の剣とをおいて、命の木の道を守らせられた』という文章だけをとりあげることにしよう。
これは要するに、アダムとエバが、エデンの園を追われて以来、その子孫である人間は、命の木のある所へは帰れなくなった――と書いてあるわけだが、これを、例のサイファー式逆読みをして、あべこベの意味に解釈すると、どうなるだろうか?『神は、人間がエデンの園に帰ってきて、命の木の実を食べることを、待っている』――ということになりはしないだろうか?
もちろん、これは、おじいちゃんの勝手な推測にすぎないといわれても仕方がない。だが、もし、新約聖書の最後に載っているヨハネの黙示録が、旧約聖書の中にかくされてある暗号を解読するための鍵になる本だと仮定して読んでゆくと、そこには偶然の一致とは言いきれないような言葉が、いろいろと姿を現わしてくるのだ。
まず第一に、黙示録の第二章(7)を読んでみよう。例の七つの教会へ送る手紙の第一番目の手紙の結びの文句に『勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』という言葉があるだろう。パラダイスというのは、古代ぺルシャ語のパイリディザが語源で、意味は、城壁などで囲まれた場所をいうのだが、例の七十人訳ギリシャ語聖書が編纂された時に、創世記の『エデンの園』を訳すのに、どういうわけか、この古代ぺルシャ語をギリシャふうに訛(なま)ってパラディソス(のちのパラダイス)と訳された。それ以来、パラダイスといえば、エデンの園のことをさすと思う人が多くなり、やがて神の王国とか天国の意味にもなったのだ。では、本来の『エデンの園』は、といえば、『エディン』はシュメール語で原野とか荒野。その中に特別の囲いをして外部と区別された聖域とか浄域がエデンの園。モーセが目ざした荒野の中の神の山の意味とも、あるいは重なる意味が、あるかもしれない。
ところで、その次は、同じくヨハネの黙示録の第二一章(2以下)を読んでごらん……『また聖なる都、新しいエルサレムが……天から降ってくるのを見た』と書いてある。そして、それに続いて『……もはや死もなく、悲しみも叫びも痛みもない……』という文章が出てくる。つまり、新しいエルサレムすなわちパラダイスに入るということは、永遠の命を得ることだ――と強調しているのだ。
それからさらに、第二二章(2)には『川の両側にはいのちの木があって……その木の葉は諸国民を癒やす。呪わるべきものは、もはやなに一つない』とあるだろう。これを見ても、未来のパラダイスの中央にも、やはり命の木があるのだ。しかも、そこでは、『呪わるべきものは、もはやなに一つない』という点を見逃してはならない。なぜならば、創世記(三-14以下)には、アダムとエバと蛇に対する『主』の呪いの言葉が、延々と書いてあるからだ。
そしてまた黙示録の、同じ二二章の一四節には、『命の木にあずかる特権を与えられ、また(新しいエルサレム=パラダイスの)門を通って都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは幸いである』とあり、最後に『また、もし、この予言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべきぶんを、この書に書かれている命の木と、聖なる都からとり除かれる』(二二-19)と、述べている。
つまり、ヨハネの黙示録の中に書いてある言葉を、勝手に省略するようなことをしたら、その人は未来のパラダイスに入って、命の木の実を手にする権利を失うことになるぞ、と言っているわけだ。
こういういくつもの文章の例からみても、ヨハネの黙示録の著者が眼目としているところは、旧約聖書の最初にある創世記の、エデンの間の中に入って、そこにある命の木の実を手に入れることだ――という結論については、もはやまったく疑う余地がないと、おじいちゃんは信ずるのだ。
では、どうしたら、そのエデンの園にあるパラダイス(荒野の中にある余人を入れない結界)の中に、あえて入って、問題の木の実を手に入れることができるか? その秘密は、これまでたどってきた逆読みの課程の、一ばん最後に現われてきた、この創世記第一章から第二章四節の前半までの、いわゆる天地創造の物語の中にかくされてあるに相違ない。さあ、そこで、これから、いよいよその最後の暗号解読を始めることになるわけだ。
例によって、最初に、創世記に書かれてあるままを、順序どおり読んで、内容を調べてみよう……そもそも、この世の初めというのは、天地が混沌としていた大昔のある時、神が『光あれ』といった。すると光が現われた。それ以来、この世には、光り輝く部分と、何かの陰になっている闇の部分が存在することになった。しかも、その光り輝く部分と闇の部分が、一日の間に移りかわるので、朝とか昼とか夜というものができた。そしてそのひとまわりの時間が、一日とよばれることになった――という意味のことを述べている。――これは非常に重要なことだ。――もし、最初に現われた光というのが、いわゆる普遍的な、全体を照らすものであったら、それ以来、どこもかしこも平均に明るくなったはずだから、夜になると闇になるということは、その光の源は一つであるということだ。 ――だとすると、その光の源は何だろう?」おじいちゃんは、悦ちゃんにきいた。
「もちろん太陽でしょう?」
「ところがねえ、どうも、そうじゃないんだな……。太陽と月と星は、第四日目になって、初めてつくられているんだから」
「それじゃ、その光って、何なんですか?」
「そこが非常に大切な問題なんだ。だが、その答は、もう少し先まで宿題としておこう。
それにしても、創世記の天地創造の物語には、この世に太陽以外の光の源があることを、はっきり主張しているということだけは、忘れないでいてくれなければいけない。じゃあ第一日のことはそれくらいにして……第二日には、神は大空をつくった。第三日には、大地と海を区別して、その大地には草や木が生えはじめた。さて、その次の、第四日になって、さっきも言ったとおり、神は初めて太
陽と月と星を、大空の中に作ったのだ。
それから第五日には、水の中で生活する魚と、空を飛ぶ鳥をつくった。そして六日日に、地上に住むすべての動物をつくり、最後に、それらのすべての生きものを支配するために、神にかたどった人間の男女をつくった。――こうして、天も地も植物も動物もすべてできあがったので、なぜか神は、七日目に休養をとられた、という。……まあ、ここまでが、有名な天地創造の物語だ。だが、これだけでは、それが永遠の命を得るための修行と、どう関わりがあるのか、ちょっと見当がつかない。そこで、この文章の中に、どんな秘密がかくされてあるのか? それを探し出すために、これから、例によって、逆読みをしてみなければならないわけだ。
爆撃下の神秘体験
さて、いよいよ天地創造の物語の逆読みをする段になると、早速、問題になるのは、一ばん最後に書いてある、
こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日に、その作業を終えられた。……神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神が、この日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである(創世記二-1)
という文章だ。これを、何の気なしに読めば、いわゆる安息日の由来が、この天地創造の時に発しているということを、説明しているだけの話と読めるわけだが、実は、安息日の制度というのは、天地創造の時どころか、モーセ時代でもなく、バビロニア捕囚時代以後に作りあげられたものらしい――ということは、前にもくわしく話したね。
では、例の『Xという人物』は、なぜ、ここに、安息日の話をもち出したのか? それは言うまでもなく、ザドク一派の注文があったからのことにはちがいないが、それならば、なぜ主(YHWH)を中心とする文章によって、ここの所を書かなかったのか? ――この問題は最高に重要なうえに、誰も複雑で説明しにくいのだが……」
おじいちゃんは、ちょっと言いよどんで、一息ついた。その瞬間、ピカッと鋭い稲妻がさし込んで、間もなくバリバリッと空を破り裂くような雷鳴が、なり響いた。悦ちゃんは両手で耳をおさえてちぢこまったが、おじいちゃんは、ガラス戸の外を見ようともしないで言う。
「大丈夫だよ、悦ちゃん、音は大きいが、この雷はかなり遠くで鳴っているんだ。この近くに落ちる心配は、まずないよ。……そうか、悦ちゃんは空襲の体験はないんだな。ああ、それどころか、日本がアメリカを相手に戦ったなどというのは、きみが生まれる前の、昔ばなしだったね。あの第二次世界大戦の終りごろ、おじいちゃんは台湾にいて、毎日毎夜、空襲をうけたものだ。ことに真夜中の空襲のときには、爆音だけで、敵の飛行機の姿が見えない。そのうちにヒュルヒュルヒュルっていう、爆弾の落ちてくる音が聞こえるんだが、その無気味な音が、自分の真上なのか、少し離れた所へ落ちるのか、爆発してからでなければわからないんだ。ドカンといって、あたりがグラグラ揺れた瞬間に、自分はまだ生きてると思うだけだった。
そういう絶体絶命の情況の中で、おじいちゃんは考えたんだ。一体全体、人間とはなになんだ?
そして宇宙とはなになんだ?……って。
今、自分は、なぜこの防空壕の中で、死を怖れてうずくまっていなければならないのか? どうしてこんないやな世の中に生まれてくる羽目になったのか?
……その原因をさかのぼってゆくと、自分が生まれてからの問題ではなくて、両親の生涯とも深くむすびついている。しかもその両親が、どうしてこの世に生まれてきたのか? そのまた前の祖先たちは? そして人類の始まりは?……哺乳動物はいつどうしてこの地球上に現われたのか? 彼らの祖先が水陸両棲動物だったころは? その前の、すべての生物が、水中で生活していたころは?
……だが、さらにそれよりも前にさかのぼると、今ここにいるわれわれの存在は、初めて地球上に発生した、たった一個の単細胞の生物につながっている。
いや、それどころではない、その生物を生み出した無機物の中にさえも、今の自分が生まれてくるすべての可能性が、ひそんでいたのだ。
こうして、どこまでもどこまでも、今ここにいる自分の、そもそもの源をたどっていくと、三○億年前の地球の誕生、五○億年前の太陽の誕生、そして窮極には、一五○億年前の宇宙の誕生……つまりあの大爆発(ビッグバン)の瞬間、その時、そこでは……現在この無限の大宇宙に散在して互いに反発しあい、自己を主張しあっている森羅万象が、まったく一点に凝縮していたのだ――この世のすべてが、たった一つの存在だったのだ――そう気がついた瞬間だった、 なんだかパッとあたり一面が光り輝いたようだった!
あれは自分の脳の遺伝子の中にひそんでいた、あの一五○億年前に大宇宙が爆発した刹那の記憶のよみがえりだったのだろうか……。
とにかくあの大爆発(ビッグバン)の瞬間から、全天の、あらゆる方向に膨脹しだした大宇宙が、そっくりそのまま自分自身の体のように思われ、あれから以後の一五○億年の巨大宇宙の歴史が、自分自身の伝記をひもどいてゆくように感じられたのだ。
あの時の気持ちを、今の悦ちゃんに理解してもらうのは無理かもしれないが
……たとえば、悦ちゃん、きみの体の中の、どこが自分自身だと忠うかい?
……きみの頭か?……手か?……足か?……髪の毛か?……もちろんきみはその全体をひっくるめたものが、自分だと思っているだろう。――では、そのきみの体を構成している約一兆個の細胞は、きみが生まれたときからずっとそのまま生き続けてきたのかというと、そうではない。その一つ一つが、時々刻々に新しく生まれ、古いものは死滅して、新陳代謝している――それにもかかわらずきみは、その過去、現在、未来にわたって刻々に変化してゆく自分の肉体や、過去の嫉しかったり悲しかったり苦しかった思い出や、未来の夢や希望や理想などを、みんないっしょにして、それを自分自身だと思っているだろう……。ちょうどそれと同じように、全宇宙に散在するすべての天体や、そこに存在するあらゆる物質、そこで起こったあらゆるできごと、そして未来のすべて――をひっくるめて、その全部が自分自身だと感じることができたとき、時間的にも空間的にも無限大で永遠無窮の全宇宙が、そっくりそのまま、自分自身になってしまうのだ
……。
だが、その時だった――おじいちゃんの心の中に、黙示録の『もはや死もなく悲しみも叫びも痛みもない』(二一-4)という言葉が浮かんできたのだ。そして、これこそ、まさしく永遠の命だ――とおじいちゃんは気がついたんだ……」
また稲妻が走って、雷鳴がとどろいた。が、悦ちゃんは、今度は少しもおののかず、おじいちゃんを見つめる目が、キラキラしている。
「それにしても、おじいちゃんはどうしてあの爆弾の雨の中で、あのような体験ができたのだろうか?
あとになってあの時の思索の筋道を、じっとふり返ってみると、創世記の天地創造の物語にこそ、自己を宇宙と一体化するための、瞑想法の奥義が、秘かに封じこめられてあるのだと思えてきたんだ。
ただし厳密には、太陽と月と星が四側目に生まれていることが、今日の天文学や地質学とは一致しないわけだが、それを第二日目の前に移しかえさえすれば、あとは人間の誕生から地上の動物の誕生へ、次は鳥と魚の誕生、それから植物へ、その次が海、さらにその次が大空、そして太陽や月や星の誕生という順序で、修行者がその瞑想の段階にしたがって、その時その時のレベルで自分の思索の目標を一点に集中して瞑想を続けて行けば、かならず最後には、『永遠に遍在する神』という以外にはよびようのない、絶対唯一の存在を直観する神秘体験が訪れるはずなのだ。――とは言うものの、もし、この七日間の天地創造の物語が、本当に永遠の命を得るための七つの段階の瞑想(メディテーション)の修行法を説き明かしているものだとしたら、その逆読みの出発点となるはずの天地創造第七日が休みの日となっているのはどういうわけだろうか?
前にも話したとおり、旧約聖書の鍔頭(まっさき)に出てくる天地創造の物語が、実は、いわゆる祭司的記者の手によって捕囚以後に書かれたもので、モーセの五書の編集の歴史の中では、一ばん新しいものであることは、多くの聖書批判学者の研究の結果、今日ではまったく疑う余地がないといわれている。
では、なぜ、その頃になってわざわざ天地創造の物語を、書き加える必要があったのか?
どうやらそれは、ザドク一派が『この天地創造の第七日目こそ安息日の起源だ』ということを、証明したかったからのようだ。ところが、ザドク一派からその指令をうけた(――とおじいちゃんが憶測する)『Xという人物』は、その注文に従って、表面上はいかにもそのように読みとれる文章を書きはしたものの、実際は、いわゆる安息日の起源は、この天地創造の物語から出ていることを告げてはいないように、おじいちゃんには思えるのだ。なぜならば創世記(二-4)には、『これが天地創造の由来である』と書いてあるだけで、『安息日の由来』とは書いてないからだ。それなのに、これまでのほとんどの聖書研究家が『天地創造の物語は、安息日の由来を説明しているのだ』と言っているのは、出エジプト記(二○-8以下、三一-17)で、はっきり書いているからだ。しかし、出エジプト記の、この部分は、『主』で書いてあることを見落としてはならない。
では、天地創造の七日目が、普通一般の安息日と、もともと関係なかったのだとしたら、この第七日というのは、どんな日を指しているのだろうか?
贖罪の日とは
「結論を先に言うと、それは『贖罪の日』だと、おじいちゃんは思っている。
『贖罪の日』とは、ユダヤ教の祝日の中でも、最も神聖で、最も厳粛な祝日といわれて、これが七月十日にあたるのだが、レビ記(二三-32)には、
『これは、あなたがたの、まったき休みの安息日である。あなたがたは、身を悩まさなければならない』
と、述べている。『身を悩ます』とは、その日一日、完全に断食をして、身に粗服をまとい、わざわざ頭から土や灰をかぶって、ひたすら瞑想し、自己を反省することだが、今日のユダヤ教徒にも、贖罪の日のこの慣習は行なわれている。ところが、それとは反対に、七日に一度めぐってくる安息日には、断食は絶対に禁じられていて、この日は晴着をきて、ご馳走を食べることが命ぜられているのだ
から、『まったき休みの安息日』の贖罪の日とは関係ないことを、はっきりさせておかなければいけない。
では、この七月十日の贖罪の日に、『身を悩ませ』て、ひたすら反省するのはなぜか。ユダヤ教の新年の祭りは、七月一日からで、これは、ごくごく古くからの伝承とされているが、この、七月一日は天地創造の第一日を記念する日だという。そして、それに続く一○日間は、人間の最初の祖先であるアダムとエバが、神によって造られたことと、そののち二人が罪を犯してエデンの園を追われたこと、さらに、この二人の悔い改めを記念する期間ともいわれている。この悔い改めの一○日間の頂点になるのが最後の、七月十日、問題の贖罪の日だというわけだ。
それにしても、おじいちゃんはなぜ、天地創造の第七日は、毎週の安息日ではなくて、七月十日の贖罪の日だ――と断定するのか……悦ちゃん、このなぜは言わないでおこう。これまでも、いちいち理由を説明すべきではなかったんだが、時間がないから結論をいそいで、ついついしゃべってきてしまった。だが、もう、ここまできたからは、言うのはよそう。自分でよく考えてみなさい。おじいちゃんだって、自分で疑問を持って、誰にも聞かないで何十年さがしてきたんだ。道を求めるっていうのは、そういうものだ……。まあ『出エジプト記とレビ記を、ていねいに読んでみなさい』とだけは、言っておこうか。
ところで悦ちゃん、きみは最初に、このおじいちゃんにむかって、そもそも宗教とはいったいなにかという質問をしたね……だが、改めてきかなくても、その答えはもうわかったろう。自分が生きているということは何か、宇宙とは何か、という問題を、『なぜ、なぜ、なぜ』と、どこまでも容赦なくつきつめて行く 瞑想(メディテーション) を、積み重ね積み重ねた末に、『全宇宙が、そのまま自分自身だ』とさとる神秘体験をすることだ――と、おじいちゃんは信じているのだ……だからといって、悦ちゃんたちの教会でよくやるような、冷暖房完備で、三食ご馳走つきの黙想会では、どんなに立派なお説教を聞いたり霊的読書をしたりを、何日続けてもそういう神秘体験は、のぞめないだろう。
くり返して言うが、本当の瞑想の前提には、絶体絶命の境地に立つということが必要なのだ。そこで、古今東西の宗教では、それぞれの指導法の中で、修行者をなんらかの極限状況に追い込む工夫を凝らしている。だが、その千差万別の修行法の中で、最も一般的で、その気になれば誰にでも実行できるのは断食だ。
断食は、修行者の意志次第で、いつでも、どこでも始めることができる。徹底的にやり抜こうというのなら、肉体が衰弱しきって、五感による知覚がまったく停止する状態、つまり恍惚感とか脱魂とよばれる状態にまで、自分を追い込むことも可能なのだ。
そこで、さっきも言ったように、もし、この天地創造の物語が、永遠の命を得るための七日間の瞑想の、段階(プロセス)を解き明かしているものだとしたら、その逆読みの出発点となる、いわゆる第七日こそは、正真正銘の断食が不可欠条件になっている贖罪の日であるはずだ――というのが、おじいちゃんの推論の決着点なのだ。
そして、この、断食をともなった瞑想を完全にやりぬいて、永遠無窮の全宇宙と自分が一体化することこそ、エデンの園(つまりパラダイス)の中にある命の木の実を手に入れることであり、同時に永遠の命を得ることでもあるはずだ。そして神はすべての人間が、いやすべての生物が、あのケルビムと回る炎の剣が置いてある、命の木の道を突破して、エデンの園に入ってくることを、首を長くし
て待っているのだと、おじいちゃんは確信するのだ。……いやそれよりも、例の『Xという人物』は、その奥義を真の求道者に伝授したくて、このモーセの五書の中に、命がけで暗号文を書き込んだのだと、おじいちゃんは読んだのだ」
史上空前の『百年間』
憑かれたように、よどみなくしゃべり続けてきたおじいちゃんの声が、ちょっととぎれた時、悦ちゃんはおじいちゃんを見つめたままで、大きくため息をしてから言った。
「そのXという人、名前、わからないんですか? どこの人で、どんな人だったか……」
「……うむ……それがね……」
両手をテーブルにあずけてしばらく瞑黙していたおじいちゃんが、再びものを言いかけたとき、またまた烈しい電光と雷鳴をさきぶれにして、叩きつけるような雨が降り出し、破れたコンクリートのテラスからはね返るしぶきが、床をたちまち水だらけにした。私はあわててガラス戸を閉めに立つと、後ろからおじいちゃんが、「ついでに力ーテンもおろして」と声をかける。
「カーテン、ですか?」私は、あきれてきき返した。
カーテンを――しかもおろすといえば、ちょっと劇場の緞帳(どんちょう)のようなイメージの一つも浮かぼうというものだが、これは蟻の街の商売ものの紙屑の中から選び出したハトロン紙(専門用語でチャモという)を、雨戸の大きさに貼りつないで裏と表にし、中に新聞紙三、四枚重ねた芯を挟んだ、とにかく糊刷毛の大奮闘で形を成した、防寒用の紙幕のことだ。真冬の夜だけ使うが、上部が釘で打ちつけてあるから、いつもは御簾(みす)のように巻きあげてある。それを真夏の日中に……いったい……? まあとにかく巻きあげの紐を外して、四枚のカーテンを全部下げた。当然部屋の中は真暗、私は電灯をつけた。見ればおじいちゃんは、台風停電時用の大きなローソクを持ち出して、木箱を代用のテーブルに置いている。さてはこの雷が、やっぱり今日は落ちそうだと踏んで、早手廻しに停電の用意かしらん。でも、紙幕までおろすのは何だろう? 例によって、おじいちゃんは理由を言わない。なぜ? とたずねて機嫌を損じてもつまらないから、いずれ判明するまで待つのが得策……とにかく講義が、再びはじまった。
「『Xという人物』が、いつごろの人かということを追及するには、まずモーセの五書が、例の祭司的記者とよばれる人びとの手によって、最終的に編集されたのは、いつか? ということから、きめてかからなければならない。その問題について、聖書批判学者たちの間では、大体紀元前五五○年ごろから、前四五○年ごろにかけてだろうというのが定説のようだ。ところで、紀元前五五○年ごろというと、バビロニア帝国のネブカドネザル王によってユダ王国が亡ぼされてから、三六年ほどたったときで、例の、捕囚の期間を、三分の二以上過ぎた時期。一方、紀元前四五○年といえば、バビロニア帝国が、ペルシャ国王キュロスによって亡ぼされ、ユダヤ人が帰国を許されてから、約九十年ほど後にあたるわけだ。
では、いわゆる祭司的記者たちが、編集の作業を行なった場所はどこか? といえば、少くとも、当時のエルサレム周辺に住む人びとにとっては、かつて見たことも聞いたこともなかったモーセの律法の書を、 例のエズラがバビロンから持って来た――という事実から見て、おそらくは、バビロンか、バビロンに近いユダヤ人の居留地ではなかったか……。
ことに、七日間の天地創造の物語は、その当時、バビロニア地方に伝わっていた神話に酷似している点から、それを、そっくり模倣したのだという説が、今のところ有力なようだ。そのほかにも、当時、ペルシャ国の国教になっていた拝火教の影響を、つよく受けているという説もあるが……大体において問題の祭司的記者(あるいは、おじいちゃんの推測する『Xという人物』)は、バビロン周辺で生活していて、しかも従来のユダヤ教の伝承以外に、異教の教義にも、かなり精通していたらしく思われる。
それにしても、この『Xという人物』は、どの程度の学識があり、どのような宗教体験の持ち主だったのだろうか? それを推測する前に、その時代の背景を、もう少し、知っておく必要が、ありそうだ。
第一に注目すべきことは、問題の『百年間』の初頭にあたる紀元前五五○年という年を一つの目やすとして、おおよそその時代に、どんな人物がいたかと考えてみると、その年は、まず拝火教の教祖、ゾロアスターの死後三三年にあたり、中国の老子は四四歳、ギリシャのピュタゴラスは三○歳、インドのシャカは一三歳、孔子は二歳だった。そして、この『百年間』の終りにあたる紀元前四五○年には、ソクラテスが一九歳で、さらにそれから二○年あまりでプラトンが生まれてくる。もう一つ余分につけ加えれば、例のエズラが、はじめてモーセの五書をエルサレムに持ってきた年として、多くの聖書研究家が推定するのは、紀元前三九八年か三九七年だが、その一年前の、前三九九年に、ソクラテスが死刑にされ、プラトンは、その時二八歳だった……要するに、この『百年間』は、古来の幼稚で低俗な宗教観を超克して、宇宙とは自己とは、生とは死とは、というような問題を、根本的に究明しようとした偉人たちが、有史以来、はじめて続出した時代でもあったのだ。
しかし、それは宗教や哲学の世界ばかりではない。ひるがえって、眼を科学の世界に向けると、ユダ王国が滅亡した年の翌年、つまり、紀元前五八五年の三月二八日の日蝕を、ギリシャの哲学者ターレスは、正確に予告したというし、そのターレスの孫弟子だったといわれるピュタゴラス(ピュタゴラスの定理を発見した――といわれる人物)は、さっきも言ったとおり、この『百年間』の前半に活躍していたばかりでなく、彼の弟子たちによって組織されたピュタゴラス学派なるものの動向は、この『百年間』を最盛期として、その後も長く、あらゆる方面の学術研究に大きな波紋を投げかけているのだ。
そのほかにも、いわゆる原子論を初めて称えたレウキッポスは、生年や没年がはっきりしないが大体この時代の人だし、その弟子で、原子論的唯物論を確立したデモクリトスは、紀元前四六○年の生まれだった……こういう例を細かにあげていたら、とてもきりがないが、ひと口にいえば、人類が、これほど合理的な方向へ真理を求めようとしたのは、二○世紀を除いたら、まさに空前絶後だったといっても言い過ぎではない。今日ある科学の基本的な思想は、紀元前六世紀から五世紀にかけてのこの時代に、ほとんど出揃っていたんだ。……たとえば悦ちゃん、きみも、電気は一八世紀になってフランクリンが凧をあげてはじめて見つけたと思ってるんじゃないかな? なぜ、今日、電気関係の用語はみんなエレクトロンとかエレクトロニクスとかいう言い方がされるか知ってるかい? エレクトロンの語源は、ギリシャ語の琥珀からきている。その理由は、さっき言ったターレスが、『琥珀をこすると物を吸いつける力が出る、これはなにか大変なことがあるんじゃないか?』って、真剣に研究していた。……フランクリンは、『雷はターレスが考えていたあれなんじゃないか?』って思って実験したら、やっぱりそうだった……二○○○年以上もたってるんだ、その間に。しかも、これは一つの例にすぎないんだよ。
……ところで、これもその問題に関連することだが、ちょっと質問したいね……あの地動説というのは、誰が発見したんだつけ?」
おじいちゃんの顔付きでは、うっかり答えたらひっかかるらしい。
「ガリレオ……じゃない、コペルニクスでしょう?」悦ちゃんが答えた。まともに、わなに落ちた。
「学校でならう西洋史なら、それでいいのかもしれないがね……」
「たしか、なんとかいうギリシャ人がいたんですね……紀元前に……」私の記憶は、ここぞという時、いつもストライキときまっているのだ。
「アリスタリコスのことじゃないか? 紀元前三世紀ごろの……アレキサンドリアの図蕃館の司書をしていた……たしかに彼は、地球が太陽のまわりを周期的にまわっているという説をたてたらしい。
だが、おじいちゃんが今、ことさらに問題にするのは、紀元前五世紀、つまリモーセの五書が編集されたころに、地動説を唱えたのは誰か? ということなのだ」
「そんな時代に、地動説なんて、あったんですか?」と悦ちゃん。
「そう、それは、あのピュタゴラスの弟子のフィロラオスだ。彼も、生年も没年もはっきりしないが、大体、紀元前五世紀の後半、つまり、ペルシャとギリシャが戦争をはじめた頃から、エズラがエルサレムにやってきたころにかけて活躍した人物だったらしい。
ところで、このフィロラオスが唱えた地動説は、中世期のコペルニクスなどの説とは少し違って、この宇宙の中心には、一つの大きな火が燃えている所があって、地球や月ばかりか、太陽も、そのまわりを公転しているという考え方だったのだ。……これは、今日の人が聞いたら、少々馬鹿らしく思えるかもしれない。しかし、それまでの人が、いや、それどころか、その後も何百年もの間、ほとんどの人が、地球は動かないでいて、太陽や月や星がそのまわりをまわっていると信じていた時代に、地球も、他の天体といっしょに大空を動いていると言い出したのだから大変なことだ。……しかもね、フィロラオス一人がそういう変わった説をとなえたというだけでなく、さっきも言ったピュタゴラス学派の人びとは、その後もその説を長く伝承して行ったのだ……実は、さっき悦ちゃんが言ったコペルニクスが、従来の天動説に疑問を持ちはじめたのは、その昔にフィロラオスという人物がいて、宇宙の中心にある大きな火の周囲を、太陽や月や地球が廻っているのだ、という説をとなえたということを知ったのが、いわゆるコペルニクス的転回のきっかけになったのだ……そのことを、コペルニクスは、はっきり書き残しているんだよ」
「太陽のまわりを地球がまわるんじゃなくて、太陽のほかにもう一つ大きな火があったら、空に太陽が二つあるようなことになりませんか?」シマッタ! くだらないことをきいてしまって……と思ったら、おじいちゃんは、むしろ待ってましたと言いたげにニッコリ笑った。
「では、フィロラオスの地動説の実験をしてみせようかな?」と言いながらローソクに火を灯して、
「電灯は消してくれたまえ」
第五章 Xという人物
火の玉中心地動説
「では、めいめいこのクロレラ饅頭(まんとう)を一つずつ手に持って……
いいかね、おじいちゃんの饅頭は地球で悦ちゃんのは月で、おばちゃんのは太陽だ……そして、このローソクの灯が宇宙のまん中の火のかたまりだ。……地球は二四時間あまりで、この火の玉の周囲をひとめぐりする。だが、フィロラオスの説明によると、地球と宇宙の火の玉の間に、もう一つ大きな天体があって、地球といっしょに公転しているために、地球からは、その火の玉は見えないことになっている……ところで、太陽はこの火の玉の周囲を三六五日あまりでひとめぐりする。だから、地球が火の玉の周囲を二四時間でひとめぐりして帰ってきても、その間に太陽の位置は、大して変わっていない。つまり、おばちゃんは、あまり移動しないでもよろしい……。要するに、地球からみて太陽が火の玉の裏側にいる時は夜で、地球がこうやって太陽の側にきた時が昼だ。
さて、悦ちゃんの月は、地球と太陽の間の軌道を二七日あまりで、これまたこのローソクの火の玉を一周する。そう、そっちを向いて、時計の逆廻りだ……
その場合、悦ちゃんとおばちゃんが、このローソクを間に挟んで正反対の位置に立った時は満月で、それとは逆に、悦ちゃんがおじいちゃんとおばちゃんの間にきた時は、月末(つきずえ)の闇夜にあたるわけだ。
それにしても、春夏秋冬の変化や、月の満ち欠けや、日蝕や月蝕の日時が、このフィロラオスの原理で、うまく計算できるかどうか、おじいちゃんは知らない……おそらくフィロラオスもそこまでは実験しなかっただろうと思うのだが……この理論でも、ある程度、地動説の説明が成り立つことはたしかだ。
とはいうものの、宇宙の中心に大きな火の玉があるという考え方には、かなり無理があるので、後日、宇宙の中心は太陽だという説がでてくるわけなのだが、とにかくちょうど紀元前五世紀の後半ごろには、少くともピュタゴラス派の人びとは、この火の玉中心の地動説を信じていたことに間違いないのだ。
となると、ここで思い出してもらわなければならないのは、天地創造の物語の第一日に、太陽ならざる光が現われたということだ。そして、第四日になって、はじめて太陽がつくられたのだから、それこそ聖書の記述どおりで考えると、空に太陽が二つ輝くことになるはずなのに、そのことに対して何の釈明もしてないということは、天地創造の物語を書いた人の脳裏に、フィロラオスの火の玉中心地動説があったからではないだろうか?
だが、それは、モーセの五書が紀元前五世紀後半に書かれたと仮定する場合に成り立つ意見で、もし、その上限が紀元前五五○年ごろまでさかのぼるとしたらどうなるか?……という疑問が、でてこないこともない。それに対しては、どう答えるか?
実は、このフィロラオスの地動説なるものは、もともと、彼の先生のピュタゴラスが考え出したもので、ピュタゴラスは、それを秘儀として、選ばれたごく少数の弟子以外には伝授しないことになっていた。にもかかわらず、それをフィロラオスが勝手に公開してしまったのだといわれている。
さっき言ったように、紀元前五五○年には、ピュタゴラスはすでに三○歳だった。一説では、そのころ彼は宗教や科学の神髄をきわめるために、エジプトやバビロニアを遍歴していたといわれているが、ごく最近のピュタゴラス研究家の一部には、若き日のピュタゴラスは、バビロニア研学時代に、ある偉大なユダヤ教の学者に出会って、神秘体験への道の奥義を伝授されたのだという人もある。となると、そのユダヤ教の学者こそ『Xという人物』だったかもしれないし、あるいはその逆に、『Xという人物』が、ピュタゴラス学派の誰かから、その秘儀を伝授されたという考え方もできるわけだ。また、それとは別に、その当時、バビロニアに、ピュタゴラスよりも『Xなる人物』よりも遥かにすぐれた学者がいて、二人とも、その秘密の門下生だったと想像できないこともない。
それにしても、なぜまた、おじいちゃんが、こんな突飛な意見をくどくどと主張するかというと、まず第一に、厳しい禁欲生活を基盤として、究極には自己と全宇宙が一体化することを目ざすという点では、『Xという人物』が、ひそかに説かんとする所と、いわゆるピュタゴラス教団の奥義とが、非常によく似ていると思われるからだ。しかも、そのことよりもさらに見落とすことのできない問題
は、その当時存在した数多くの秘儀教団の、初歩入門の儀式に共通するものとして、秘儀を伝授されたいと志願する者は、まず長期間の断食に耐えてから、天地創造の過程を演劇的に再現する儀式に参加することによって、身心両面から、この世の始まりの状態に戻って行って、最後には宇宙の根源そのものと合一するという様式が、あったことだ。
実は今、おじいちゃんが、部屋を暗くしてローソクをつけて、ピュタゴラス学派の地動説なるものを、わざわざ実験してみせたのは、ピュタゴラス教団の秘儀伝授の儀式でも、おそらく今われわれがやったことを、ずっと厳粛に、音楽や、動作のリズムを使って行なったに相違ないと思うからなんだ。また、それと同時に、創世記の天地創造の物語も、単に祖先の語り伝えた神話を記述しただけのものではなく、瞑想による超越的神秘体験の方法を暗示しているものだということは、あの当時の秘儀教団の儀式からも、充分に推測できるはずだ……。
だが百歩ゆずって、『Xなる人物』とピュタゴラス学派の人びととは、何の関わりもなかったとしても、ゾロアスターや、釈迦や孔子やソクラテスばかりでなく、現代の数学や物理や天文学の元祖ともいうべき偉才を続出した紀元前六世紀から五世紀にかけての、神秘的ともいえる時代精神の中で、お互いが、なにか共通するものを摑(つか)まなかったはずはないと、おじいちゃんは考えている。
とは言っても、その『Xなる人物』の正体を、もう少し、はっきりさせることはできないものか?
……そこで、旧約聖書の中に、もしも永遠の命を得るための奥義がかくされているとしたら、それはイザヤ書なのではないかと、今でも多くのユダヤ人が疑っている――ということを、思い出してもらいたい。
沈黙の第ニイザヤ
「イザヤのことは前にくわしく話したが、少しくり返してみると、マタイによる福音書の第一三章10以下)には、イエスが特に選んだ少数の直弟子以外の者には、譬(たと)え話しかしなかったのは、イザヤの予言を成就するためだと説明している。ところで、そのイザヤ書には、どんなことが書かれているかというと、
『あなたがたは、くり返し聞くがよい。しかし悟ってはならない』(六-9)
『わたしは、あかしを一つにまとめて、教えをわが弟子たちのうちに封じてお こう』(八-16)
『このすべての幻は、あなたがたには封じた書物の言葉のようになり……』 (二九-11)
というような、まことに不思議な言葉がやたらに出てくる――とすると、この預言者イザヤの秘密とは、なんだろうか?
彼がイスラエル王国滅亡の直前にユダ王国内に現われて、その後、約六十年間『ユダヤ民族あやうし』と、きびしく警告しつづけたことはあまりに有名だが、彼の予言をまとめたといわれるイザヤ書は、六六章もあって、預言者といえば誰でもすぐイザャを連想するほど、彼の糸とその著書はひろく知られている。
だが、その六六章もあるちょう厖大なイザヤ書の中で、いわゆる有名なイザヤ自身が予言した部分は、前半の第一章から第三九章までで、それから先は別の人物が書いたのではないかという疑問をいだいていた人は、かなり早いころ―― 少くとも一二世紀ごろからあったようだ。そして、例のジャン・アストリックの『もとの覚え書についての推測』が問題になりはじめた一八世紀の終りになると、ヨーロッパの学者の中でも、前半を第一イザヤ、後半を第二イザヤと区別して、その第二イザヤが書いた部分は、バビロニア捕囚以前のものではないという意見をもつ人が多くなりはじめた。
ところが、その後(一九世紀終りごろから二○世紀のはじめにかけて)最後部の五六章から六六章は、鰭ニイザャよりもさらに後の人によって加筆されたものだ――という説が現われた。したがって、それから以後は、第一章から第三九章までが第一イザヤ、第四○章から第五五章までが第二イザヤ、そして第五六章から六六章までを第三イザヤとよぶようになった。
しかし、その後にも、いろいろの説をとなえる学者があって、中には『細かに分析すると、第一イザヤ、第二イザヤのものといわれる部分にも、ずっと後世の人が加筆したところがある』と指摘する人もあるのだが、いずれにしても、ユダヤ人のバビロニア捕囚を契機として、それ以後に(第一イザヤとは別個に)第二イザヤとよばれる人をはじめとする、一連の新しいグループが現われて、それまでのユダヤの思想(というよりは、ザドク一派的思想)とは極端にちがう新しい理念を、ひそかにたてていたらしいことは、否定できない事実のようだ。
では、その第二イザヤとよばれる人物や、彼をめぐる人びとの思想とは、どんなものだったのだろうか?
結論から先に言うと、第二イザヤの思想が、のちのイエスの教えと非常によく似ているということは、今日では知らない人がないほど有名な話だ。だが、なぜ、両者がそんなに似かよっているかという説明になると、いささか暖昧な感じがする。そこで、おじいちゃんは、世間の人が聞いたら、『独断・偏見』と非難罵倒されるであろう一つの珍説を主張したいのだが……それは、この第二イザヤこそ『Xという人物』ではなかろうか、ということなのだ。
まず第一に、年代の問題からいうと、聖書批判学者たちは、第二イザヤという人物がおもに活躍した時代は、紀元前五四○年代(バビロンが陥落して、ユダヤ人の帰国がゆるされたころ)前後と断定しているようだ。――ということは、モーセの五書が、いわゆる祭司的記者の手によって、最終的に編集されたといわれている時代と、ほぼ一致するわけだ。
次に注目すべきことは、この『第二イザヤとよばれる人物』が、モーセの五書の編集に関係があったかどうかは別問題として、彼は、有名なイザヤ書の中に、彼独自の思想を、完全に名前をかくして、しかも堂々と加筆している――ということだ。いったい、どうしてそんな大胆な離れ技ができたのだろうか?
つまるところ、権力者の中にはむしろ、博学多識の人物が、そう多くはなかったと想像される時代に、彼は、宗教関係の重要な文書を保管したり、書き写したりする仕事の、全責任を委ねられているというような、特殊な位置にあったのではないだろうか? だとすると彼はまた、モーセの五書編集の作業にもたずさわる資格を充分に持っていたことになる。
第三の問題は、第四○章以下(第二イザヤが加筆した部分)になると『神が天地を創造した』という意味の言葉が、くり返し出てくるということだ(イザヤ書四○-26、四四-24、四五-7、12・18、四八-13、五一-13、五四-16)。
多くの聖書研究家は、祭司的記者によって加筆された天地創造の物語が公表されてから以後に、それを読んだ第二イザヤが、この『天地を創造した神』のことを書いたという解釈をしているのだが、それにしては、引用のしかたが、あまりに多すぎはしないだろうか? それよりはむしろ、第二イザヤが天地創造の物語の執筆者だったと推定する方が、筋が通るようにおじいちゃんには思えるのだ……。そのほかにも、第二イザヤが、『Xという人物』ではあるまいか? と臆測したくなる根拠は、いろいろあるが、その中でも、おじいちゃんとして特に気になることがある。
イザヤ書の中の第二イザヤの部分には、
『わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人(えらびびと)を見 よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。彼は叫ぶことなく声をあげることなく、その声をちまたに聞こえさせず……』(イザヤ書 四二-1以下)
という、意味深長な言葉が出てくる。この『しもベ』とよばれる人物は、どういうわけか、ひどい迫害をうけて殺されたらしい――と一般に解釈されている。そこで、多くの聖書研究家は、この『しもべ』の記事は、イエスの十字架の死を予言しているのだと説明する。だが、これを、『Xという人物』が、ザドク一派の圧力のもとに、例のモーセの五書編集の責任者とされたことを、暗示しているものだとしたら、どうだろうか? その当時のユダヤ人は、誰ひとりザドク一派の権勢に逆らうことはできないのだから、直接、口に出しては、なにもいえないが、その中にはあの荒唐無稽なモーセの律法に対して、心の中では、激しい憤りを感じていた人が、何人もあったに相違ない。しかも、その人びとは、正面から否定非難することがまったくできないとなれば、その鬱憤(うっぷん)は、蔭で指令した権力にむかってよりも、表面に出て実際に編集をした人物に対してぶっつけられたであろうとは、充分に想像できることだ。
ところが『Xという人物』は、それに対して、一言の弁解もできない。もし、自分の本心がモーセの五書の中に暗号でかくしてあるのだと打ち明けて、万が一にもそれがザドク一派の耳に入れば、例の『神』によって構成してある文章のところは、ただちに、全部、書き改められるにきまっている。それでは、せっかく、恥をしのんで、ザドク一派に迎合しているように装いながら、命がけであの暗号文を挿入したことが、まったく水泡に帰してしまうではないか。だからこそ『彼は叫ぶことなく声をあげることなく、その声をちまたに聞こえさせず……』(四二-12)にいるよりほかに、しかたがなかったのだ。彼は、
『わたしを打つ者にわたしの背をまかせ……恥とつばきを避けるために顔をかくさなかった』(五○-6)
のだ。それゆえ、彼の本心を夢にも知らない反ザドク派の人びとは、彼を徹底的に軽蔑した。だが、(それはずっと後世になって)彼の真意が明らかに理解される時、彼らは、はじめて気がつくだろう……。
『彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった…………彼はしえたげられ、苦しめられたけれども口を開かなかった。ほふり場に引かれてゆく小羊のよううに口…………を開かなかった…………彼は暴虐を行なわず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった』(五三-3~9)
と。ここでまた、多くの聖書研究家は、この第二イザヤは、罪なくして殺され、その死骸は悪人として捨てられたように解釈する。しかしおじいちゃんには、そうは思えないのだ。
彼の墓が『悪しき者と共に設けられた』ということは、ザドク一門の墓に葬られた、ということではないだろうか? ――要するに、永遠にザドク一派と心を同じくする仲間として扱われたことだ――そうだとすると、どうやら『Xなる人物』は、ザドク一門の主流ではなかったとしても、一門の中でかなり枢要(すうよう)な位地を占める人物だったのだろう。だからこそ、モーセの五書なるものを作ろうという計画をたてた首謀者たちも、一応、『Xという人物』に心をゆるして、彼らの企てを打ちあけたのに相違ない。
その場合、断乎として拒絶することは、たやすい。だが、それでは結局、別の人の手によって、権力の策謀が成就されてしまうだろう。それよりはむしろ、自分がまったく体制側の人間を装い、それは死んだ後までも装い通して相手を油断させ、逆に、永遠の命を得るための修行法の奥義を、見事にモーセの五書の中に暗号でかくし込むことの方が、より賢明なやり方だと、彼は、判断したのではなかつたろうか。
だが、それにしても、モーセの五書の中に暗号がかくしてあるということを、どうやって後世の人に伝えたらいいだろうか? 彼はそのヒントとして、うってつけの言葉を、イザヤ書の中に発見した(六-9、八-16、二九-11)。そこで彼は、自分の弟子たちに、モーセの五書の本義が知りたかったら、まずイザヤ書を徹底的に熟読せよ、と教えた。それと同時に、自分の心の苦悩を、こまごまとイザヤ書の第四○章以下に書き加えた。だが、それだけでなく、おそらく極く極く厳選した少数の直弟子には、暗号解読法そのものも教えたのではないだろうか……。ピュタゴラスの弟子や『X』の弟子は、そののち、その秘伝を後世に伝えるために、どんなに必死だったかという話は、今は時間がないからしていられないが、とにかく、それから六百年あまりたって書かれたマタイによる福音書の第一三章(11以下)
『あなたがた(直弟子)には、天国の奥義を知ることが許されているが、彼ら(群衆)には許されていない…………それは彼らが見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。こうしてイザヤの言った予言が彼らの上に成就したのである………多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こう
としたが聞けなかったのである……』
というイエスの言葉がでてくる。だが、マタイによる福音書の著者は、いったい、ここで、何を言おうとしているのだろうか?
悦ちゃん、そもそもおじいちゃんが、こんな長い暗号解読法の話をはじめたのは、イエスのいう永遠の命の奥義とは何かということを探求するためだったね。ところがそれはモーセの五書の中に暗号でかくされている瞑想法らしい――という答えが、一応でてきた.しかし、これは、あくまでも一つの仮説にすぎない。これからさきは、新訳聖書にでてくるイエスの言葉や、イエスの弟子たちが書き残した文章の一句一句と照らし合わせて、果たして、それがこの仮説を証明することになるかどうか、吟味してみないことには問題が解決したとはいえないのだ。そこで、その証明をするためには、まず第に……」
電話のベルが鳴った。悦ちゃんのお母さんとシスターが、地下鉄の浅草駅に、今、着いたという知らせだった。こちらはカーテンを下げたままの部屋に電灯もつけず、ローソクの焔を真中に、息をつめておじいちゃんの話に聞き入っていたのだが、夕立はどうやらあがったらしい。電話の相手はお母さんかシスターか、おじいちゃんは、待乳山の聖天さんのそばの電話ボックスを教えるのに、またも
骨を折っている。この小屋から歩いて二分たらずだから、そこまできたら、電話してくれというわけだ。聖書が暗号だなどという途方もない問題になると、いかにも快刀乱麻のごとき印象を与えて解説する人にしては、簡単な道案内くらいがずいぶん苦が手のようだ。……その間に私は悦ちゃんと二人で、紙のカーテンを巻きあげ、がたがたときしむガラス戸をあけた。室内がパッと明るくなって、雨に洗われた涼風が、勢よく流れ込んでくる。
「あ、虹!」悦ちゃんの歓声で川向うを見ると、東の空に、めずらしく大がかりな虹が、川に添って空いっぱいのコンパスを回したように懸っている。
おじいちゃんは、私たちの声に見むきもせず、
「残すところ、一○分あまりか……」と、つぶやいた。
終 章 神の国の到来するまでは
必死の断食が
「おじいちゃん、一口でもいいから、召しあがってからになさってください。シスターやお母さんが見えたら、なにかとお話が長くなって、またまた延びのびになるでしょうから……」私は今度こそ、まんとうだけでも食べてもらわなければ、と気が気でなかった。
「ああ、そうだ、さっきみんなで食べかけたのに、どうして……」
「ですから『その前にひとこと話がある』っておっしゃって……」
「そうだ。大変なことを忘れていた。そのひとことを、まだ話してなかった……それを聞いてもらわなければ、食事をはじめることができなかったんだ」
「じゃ、短かくお願いできますか? 本当にひとことだけ」
「うむ、しかし、さっきどこまで……第二イザヤこそ、問題の『Xという人物』ではあるまいかという話だったな。実は食事の前に話したかったのは、その『第二イザヤ』についてなんだ。イザヤ書の第二章(6)を開いてごらん……」
悦ちゃんは、立派にヤセ我慢してるのか、それとも、早くも空腹感が麻痺してしまったのか、おじいちゃんが言い終らないうちに、さっとペイジをあけてしまっている。
「そこには、猛獣や毒蛇でさえも、他の生きものを傷つけずに、仲よく暮らす理想郷が描かれてある。
この部分を書いたのは、本来のイザヤのようにも思えるが、聖書研究家の中には、第二イザヤか、第三イザヤが加筆したものだと主張する人も、かなりある。
なぜかというと、明らかに第三イザヤが書いたとされているところにも、それと同じような地上の楽園の話が出てくるし(六五-17~25)、第六六章(3)には、
牛をほふる者は、また人を殺す者
というような言葉さえ書いてある。――ということは、第二イザヤや、彼の弟子たちと思われる人びとは、神というもののイメージをどのように心に描いていたのだろうか?
彼らは、『そもそも神が、ありとあらゆるものに対して公平無私で、しかも完全な愛の存在ならば、牛や羊を犠牲として捧げろなどというだろうか?』という疑問をもったが、実は、この問題については、イザヤ以前の預言者たちも厳しく問いつめているのだ(ホセア六-6、八-13、アモス五-21~23参照)。
今は時間がないから、いちいち言わないが、あとで調べなさい……とにかく、その、神の王国の理想が実現されたあかつきには、いかなる生きものも、『おそれおののく』ようなことがあってはならないはずだ、と、第二イザヤのグループは、考えていたらしい。にもかかわらず、人間が肉食を好み、それを当然のことと信じているかぎり、少くとも人間以外の生物にとって、真の幸福などというものはありえないだろう。そればかりでなく、もし、神が本当に慈悲ぶかい存在だとしたら、人間が生きものを食べるということを、神はつらく思っていないだろうか? 言いかえれば、人が生きものを食物とするということは、単に動物たちを怖れおののかせるだけでなく、神の心をも苦しめ悩ましていることになりはしないだろうか? だから、ほんとうに神の存在を信じ、その神の愛を信ずる者にとっては、生きものを殺して食べるということは、とてもできないことになるはずだ。
ところが、世の中には意地の悪い皮肉屋がどっさりいて、『そんなこと言ったって、野菜や穀物だって生きものなんだから、動物を殺さないといっても、結局、人間はなにかの命を奪っているわけだ。だから肉食も菜食も大差ないよ』といって嘲笑する。いや、そればかりでなく、人間は神に似せてつくられたものであり、万物の霊長なのだから、動物にせよ植物にせよ、この世に存在するすべてのものは、ひたすら人間の生活を豊かにする目的で神がつくったのだ』とか、『人間が、彼らを殺して食べてこそ、彼らの命は生かされることになるのだ』という理屈までも、持ちだす人がある。だが、それは、人間社会を支えてゆく上にも、危険きわまる考え方だと、おじいちゃんは思うのだ。
それはなぜかというと、もし人間が動物や植物に対して、そのような一方的な解釈を正当だとするならば、当然、人間の社会でも、『雇い主は労働者を搾取して何が悪いか』とか、『兵隊は、よろこんで戦場で戦死するのが当り前だ』という暴言がまかり通ってもしかたがないことになる。……だから本当のことを言うと、動物どころか植物をだって、心に痛みを感じないで平気で食べることのできる人に、真のデモクラシーを唱える資格はないし、まして、肉食を謳歌しながら神の王国の到来を信ずるなどということはナンセンスだ……だってそうだろう? 神の国の住人になるということは、神と同じ心を持つことなのだから……。
この、生きものを殺したくないということは、いわゆる道徳上の善悪を言っているんじゃない。殺される者の怖れや悲しみを、自分自身の怖れや悲しみとして感ずるからだ。それも、センチメンタリズムというようなものじゃない。全智全能の慈悲ぶかい神が感じる、痛みの共感だ。
だが、そうなると、当然、動物を殺して食べるどころか、穀物や野菜の命をとることさえもつらい、到底しのびない……その問題を悩みぬいた末に、自分が生きるということが、即ち無数の他の生きものを殺すということを意味するならば、むしろ自分を殺すことによって、少しでも多くのものに生きのびてもらうより、仕方がないという思いが湧きあがってきた時、断食がはじまるのだ。
それは、病気を治したり、心の悩みごとを解決するための断食ではない。いわんやデモンストレーションとしての断食でもない……。なにものをも、殺すにしのびない気持ちが、極まった果ての断食だ……こう思うのは、おじいちゃんの独り合点だろうか……」
悦ちゃんが横目で私をみて、チョロッと舌を出す。
「いや、悦ちゃん、実は有史以来の、すべての真剣な宗教の修行にはかならず、この断食がつきものだったんだよ。それも、一日三食のうちの一食を抜くとか、時間や日を限って、特にぜいたくな飲食を慎しむというような、形式や気休めの断食ではない。無条件に、自己をまったく抹殺しようとする決死的な断食なのだ。そして、そのやむにやまれぬ、思いつめた気持ちになりきった時、はじめて、宇宙とは何ぞや、自己とは何ぞやという問題を、とことんまで突きつめて瞑想する可能性が生まれるのだ。
おじいちゃんが、さっき、瞑想には、断食がつきものだということを、強訓した理由はここにある。
それも、膜想するために断食するのではない。必死の断食の中から自然に湧きあがる眼恕でなければならないのだ。
だが、その断食と併行した瞑想の最中に、おじいちゃんは、またまた大きな問題の壁につき当ってしまった。
光合成の秘密
「それはね、第二イザヤをめぐる人びとが待望したような神の王国は、自分ひとりが断食して命を絶つくらいのことで、とても解決する問題ではないということだ。なぜならば、いわゆる弱肉強食ということは、人間だけがやっているわけではない。つまり、この世の、ありとあらゆる動物が、つねに自分より弱い動物なり植物を食べなければ 実際問題として生きてゆくことができないのだ――とすると、今かりに人間だけが肉食をやめたからといって、動物たちばかりか、植物の世界でさえも、弱肉強食の争いは、絶えるはずがないではないか。
さあ、困った。もし、この地球の生きとし生けるものが、いかにしても弱肉強食や生存競争のくびきから逃れられないのだとしたら、神の王国の到来などということは、永遠に夢物語に終るのだろうか……おじいちゃんは、ここで、一時、ほんとうに行きづまった。
だが、ちょうどその時、目の前に現われたのが、このクロレラだったんだ……」
おじいちゃんは少し首を傾けて、クロレラまんとうの入った籠を、いとおしそうに両手で囲む。
「このクロレラについては、さっき、二一世紀の食糧難の解決の方策や、宇宙旅行の夢まで、いろいろ話したが、実は、おじいちゃんはこのクロレラに、そういうことよりも、もっともつと別の願いをもっているんだよ……。この、クロレラという単細胞の植物を、徹底的に研究することによって、いつの日か、人間が植物の命もとらずに、無機物から直接、食物をつくる可能性を発見したい――
という祈りだ。
それを科学的にいえば、光合成の秘密を解きあかすということになるだろう。要するに植物の中の葉緑素などが、太陽の光のエネルギーの作用をうけて、無機物である炭酸ガスと水から、有機物である炭水化物を生成する原理……その生化学の原理はまだ、正確にはわかっていないようだ。だが、このクロレラという単細胞の植物の祖先は、はじめて地球上に生物が発生したころの、最も初期の原始的な生物の一つだったらしい――といわれている。ということは、無機物から有機物が生まれる秘密が、この一個の単細胞の生命の中に入っているということではないか。
そこで、このクロレラの光合成の秘密をさぐることによって、やがて無機物から有機物を、人工的につくり出す可能性が発見されたとしたら、人間が生きるために、穀物や野菜の命さえもとらないでいいことになって、最終的には、あらゆる生物にとっての弱肉強食の争いを、この地球上からまったくぬぐい去ることが、できるかもしれない。
ところで、このクロレラと、おじいちゃんが、どうしてめぐり会ったかというとね……
実は、このクロレラの研究を、第二次大戦の始まる前から、世界にさきがけて続けている学者に、中村浩という理学博士があってね、彼は、おじいちゃんの小学校一年からの同級生で、今でも無二の親友なんだ。その彼から、はじめてクロレラの話をきいた時、おじいちゃんの霊感がひらめいたのだ。たとえ、たった一人でも、今の世の中に、無機物から食物をつくる方法を発見したいという学者が地球上に現われたということは、その目的が達成されるのは、何十年さきか、何百年さきか、あるいは何万年さきか、わからないが、とにかく、もう時間の問題にすぎないはずだ――とね。
そして、やがて、いつの日か、人間が無機物から造った食物を食べて、すべての動物どころか、すべての植物の命をも、取らないですむような時がきたら、次には、その食物をすべての動物にすすめて、『きみたちも是非、われわれ人間と同じように、何ものをも殺さないようになってくれたまえ』と、説得することができるようになるわけだ。さあ、そうなったら、はじめてその時、『人間は神に似せて造られたのだ』とか、『万物の霊長だ』とか、誇ることもゆるされるだろう。
だが、ここで非常に大切なのは、そのような大理想を実現する可能性は、今のところ、この地球上では人間の世界にしか存在しないということだ。しかし、われわれ人間は、動物はともかく、植物までも食べないとなれば生きてゆくことができない。それでは殺さないで生きられる可能性の探究そのものが続けられないわけだ。しかたがないから、その日が来るまでは、つらくとも何かの命を奪って
食べなければならないわけだ。
そこで、話は最初のふり出しに戻って、現実には、今われわれの目の前にある、このクロレラまんとうを食べるにしても、クロレラという植物や小麦の命をとることになるのだが、おじいちゃんは、いつも、このクロレラまんとうにむかって『われわれは今、神の王国の実現を心から念じながら、病気や死の心配を無視して人体実験をしているのだから、どうか、きみたちも協力してほしい』と、手をあわせて頼んでいるんだ。
さあ、どうだね悦ちゃん、きみも、このおじいちゃんといっしょに、このクロレラまんとうと牛乳にむかって、心からこの言葉をいう自信があるかね……」
まるでおじいちゃんに、なにかがのり移っている……それにしても、なんということだろう……私は二年もクロレラ食を続けながら、その増殖力と栄養価だけに、飢餓を救われる希望を託していて、おじいちゃんがクロレラと語り合っていた思いを、まったく知らなかったとは……。とうていその祈りを祈れる人間でないと見抜かれているから、これまで話してもらえなかったのだろう……。孤独感で気が遠くなるような一瞬ののち、私はふしぎなあたたかさと軽さに包まれた。
悦ちゃんが、少し鼻をつまらせて答えていた。
「今まで、そんなこと考えてみなかったけれど……これからは……おじいちゃんのような祈りが、思えるような人間になりたいと思います……」
「じゃあ、最後にヨハネによる福音書の第六章を開きたまえ。ここのところは永遠の命のことがくり返して出てくるところだから、あとでよくよく読み返さなければいけないが、今は、その五三節から五六節までの、イエスの言葉を、三人でそろって読んでみよう」
『よくよく言っておく、人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉をたべ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を、終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血は、まことの飲みもので ある。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしにおり、わたしもまた、その人におる』
「悦ちゃん、このクロレラまんとうと牛乳を、これまでどおり、ただのパンや牛乳のつもりで食べたり飲んだりしてはいけないよ。本当に神の遍在を信ずるなら、このまんとうを食べるのは、イエスの肉を食べることだ。この牛乳を飲むのは、イエスの血を飲むことだ。いや、それだけではない、今われわれが、吸い込む空気もまた、イエスの息をのみ込むことなのだ……そして、何を思い、何を語るのも、イエスの考えを思い、イエスの言わんとすることを語るのでなければ、信仰生活とはいえないのだよ……。さあ、それがわかったら、この牛乳とクロレラまんとうを食べよう……」
長い長いおじいちゃんの話が終って、やっと三人は食事をはじめた。だが、その時を待っていたかのように、電話が鳴りだした。シスターとお母さんが、聖天さんの下まできたのだ。おじいちゃんは、「二分のうちには、そこまで行きます」と言って受話器を置いた。
「悦ちゃん、お母さんとシスターが、間もなくここに来られる……いいね?」
「いいです」と、はっきり答える悦ちゃんの顔は、晴れ晴れしく美しかった。
立ち上がって行きかけたおじいちゃんを追って、悦ちゃんが叫んだ。
「おじいちゃん!」
「うん?」扉を開けかけたおじいちゃんがふりむく。
「おじいちゃん、ほんとうにありがとうございました。悦子、尾道に帰ったら、自分で聖書よみはじます……でも、あの、一つ……一つだけ……」
「ひとつだけ?」
「……あのXという人、それに第二イザヤとよばれる人……名前、わからないんでしょうか」
「……」おじいちゃんは、噴き出したい笑いをこらえたらしい。おどけた顔で悦ちゃんをみつめてから
「悦ちゃんどう思う?」
「……ダニエル?!」
気おい込んで一声たずねた悦ちゃんに、おじいちゃんは、一瞬、自分の内側に向けたかのようなほほえみを残して、扉の外に消えた。
あ と が き
田 所 静 枝
この、ずいぶん奇妙な話を、あえて本にしようとしたのは、このような聖書の読み方が本当だとか、まして、これを意見として、世間に取り次ぎたいなどと思ってのことではない。もとより私に、そんな資格などないし、そのような望みも毛頭ない。ただ、このような、ものの考え方をする人の存在が、私には大きな驚きであり、また同時に、私の人生にとっての最も重大な事実であったことを、確認し、告白したかったまでである。
「千万人といえどもわれゆかん」とはよく聞くが、桃楼じいさんの一生は、どうやら「千万人ならばわれゆかん」ということらしい。私が見るところ、桃楼じいさんという人は、世の全部の人が「こうだ」といえば、「オレはそうじゃない!」と、ただ一人の異方向へ突進するのが本領のようだ。
かって世論が挙げて「浮浪者部落を焼き払え!」といった時代、「浮浪者の味方するのは市民の敵」で、福祉法どころか福祉という単語さえ世間に使われなかった時代に、断乎として立ち、あらゆる手段をつくして棄民(きみん)行政を妨害した桃楼じいさんが、やがて世間の目が福祉に向き、法律も制定され、ボランティア活動もさかんになってくると、まっさきに、その戦いをやめてしまった。もし仮りに、「聖書は暗号だ」などという思想が世の常識であったとしたら、そのとき桃楼じいさんは、現在一般に教えられているような聖書の読み方を、ただ一人で主張することになるにちがいない。
私から見れば、すでに何百億の人が読んできたであろう旧約聖書にむかって、「わたしはこう思う」などと言っている人物のすがたは、まさに、ヤセ馬に鞭打ちつつ名乗りをあげて、風車めがけて突進してゆくドン・キホーテの姿そのままに見える。そしてそれは、かって、焼き払われようとする蟻の街をうしろ手に、東京都にむかい厚生省にむかい、また金持ちと観光業者にむかって斬り込んで行った彼の姿とも重なるものだ。
「それは風車だ、風車だ」と、声をしぼり両手をあげて訴えて“も、耳を藉(か)されるためしのないサンチョ・パンサが、つまづき、倒れ、汗と泥にまみれながら、それでもなお引っぱられてゆくのは、何故なのか。
私がこの話を聞いてから、十数年たっている。今になって録音テープをまとめる作業をしていて、ハッと思いついたことが一つあった。それは、世の中に、サイファー型思考の人間と、コード型思考の人間が、たしかにあるらしいということだ。
考えてみれば、文章でも会話でも、そしてすべての芸術でも、それらがどんなに明快に描かれ、懇切(こんせつ)に語られていようと、表現というものは、所詮、暗号なのではないだろうか。コミュニケーションは、送り手と受け手が、どんなにわからせているつもり、わかっているつもりでいても、実は、何らかの謎解きをして、はじめて、その真意に触れ得るものなのではないだろうか。
サイファー的人間は常にサイファー法で暗号を発し、サイファー法で謎を解き、コード的人間は、すべてをコード法的思考で表現し、コード法的に理解しようとし……
国家機密や軍隊や、各種のスパイなどが使う暗号には、ほとんどコード法が使われると聞いた。サイファー法は、どうやらユーモアの世界に属するものらしい。松居桃楼という人は、あらゆる現象を、サイファー的に解こうという人だ。そして、自分がしゃべるとなれば、これがさらに徹底する。白を、「白だ」とは言わない。「白と気づかせよう」とするだけだ。それも、気づいてよし、気づかなくてよし……コード人間の私は「何がなんでも白だ」とはっきり言って相手に納得してもらわなければ落ちつけない。サイファー式暗号(謎)の場合、どんな結論にも、割り切れてしまわない含みが残されるらしい。
この、「どのようにも解けそうな」あいまいさが、その存在をグロテスクに見せるような気がする。
私は、桃楼じいさんに対する難解が肩に積もって、立っている力さえ尽きそうになったとき、仕方なく、「狂ハ非俗ナリ」と書いて壁に貼り、数カ月ながめて暮らした。
「ここに、そう書いてあるのだから、そうにきまっている」と考えるのが、コード型思考とすれば、「ここに、そう書いてあるのだから、多分、そうではないでしょう」――サイファー型人間は、むしろ、こう言うだろう。
すでに発見された事実を、説き、教えるのはコード的作業かもしれない。今までなかったことを発明発見する人は、サイファー型といえるだろうか。
それにしても、この長年月、一貫して桃楼じいさんの話が難解だった理由を、つくづくと私は思い知った。サイファーで出される暗号を、あくまでコード法で解こうとしていた、こんにゃく問答の幾星霜(いくせいそう)が、吾れながら可笑しくあわれだ。
この話をまとめにかかる前、ノートを整理したり録音を起こしたりしていて、偶然、音を出してみたテープが、面白くて全部ひと続きに聞いてしまった。私自身、忘れていた内容が多かったので、翌日おじいちゃんに簡単に話してみると、
「誰が書いたの?」
「テープがあったんですよ」
「ああ、ラジオドラマ?」
「お忘れになったんですか? 悦ちゃんていう中学生が家出して、おじいちゃんが、一日じゅう話してあげたでしょう」
「そんなことあったねえ……その時、そんなことをしゃべったの……? そうか、お母さんが迎えに来る前に逃げ出すといけないから、必死で大法螺言ったんだな……」
結局、おじいちゃんが法螺だという時が法螺なのか、真実だというときが真実なのか、それとも法螺なのか――やっぱり私は永久にわからないままで、聞いた話を、ここにまとめる以外にない。いつか、悦ちゃんの子どもが家出してきて、もし私が生きていて、宗教の悩みをうちあけられたら、私は、おそらく、この話を、このまま伝えることができるだけだろう。
けれども、ひとことだけ、私の意志で私の言葉を告げるであろうことは、「Xの名は?」と、もしもその子にきかれたとき、私は「桃楼じいさん」と答えるだろうということだ。
(一九八一年夏至の夜)
黙示録の秘密一聖書は暗号で書いてあったの巻
1981年11月15日 初版発行 検印廃止
著 者 © 松 居 桃 楼
田 所 静 枝
発行者 中 山 信 作
印刷/暁印刷 製本/小高製本
発行所 株式会社 柏 樹 社
東京都文京区千駄木2-8-3(〒113)
Tel O3-827-8431
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