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第二部最初

第二部 「思慮ある者は解くがいい」

 

 

   第一章 「蟻の街の奇蹟」と私


     現代版ドン・キホーテ
 

 今日の話は、きっと「あの話」にちがいない――と、私は気づいていた。
「なにがあっても、命がけでこの話を、終りまで聞き通す覚悟があるか?」と、悦ちゃんにむかっておじいちゃんが言った時、なぜか、「あれだ!」と直感したのだ。
 だから私は、さっきから自分に可能なかぎり精神を集中して聞こうとしていた。(今日こそは、あのなにかが聞けるかもしれない。私が迷い込んでしまった疑惑からの出口がわかるかもしれない)……しかし、一方では(こんな場合に、話されてたまるか!)という焦燥感の方が、勝手にどんどんふくれあがって行った。
 私が、十数年前、「あの話」を聞きたいばかりに、無我夢中でおじいちゃんを訪ねたのは、カトリックの洗礼をうけてから半年あまりすぎた一日だった。洗礼の一年あまり前まで私は、キリスト教についてまったく無知だった。私の父は青年時代から筋金の入った日蓮主義者、母は道元とゆかり深い、七百年あまり連綿と続く家の直系に生まれ、そして私は、日本古神道をバックボーンとする学校で最も多感な青年期をすごした。
 そんな、ちらし丼のごとき宗教的土壌に育った私が、カトリックの洗礼をうけたのだった。
 それは、私の「宗教的選択」ではなかったので、洗礼のまぎわまで、一種の不安があった。しかし、当時のカトリックの先輩たちは、「信仰は選択ではない。恩寵だ。選ぶのは神さまの方だ」と、はげましてくれた。
 私の選択でないというのは、当時、婚約していた相手がカトリック信者で、家庭を持つ以上は同じ信仰を、と先方が希望したからだった。
 私は教理の勉強をさせてもらうために、カトリックの修道会が経営する施設に就職し、慈母のようなシスターから、毎週、三、四時間、初歩の講義をうけた。しかし、講義はどんどん進行しても、私の気持ちは前進しなかった。何しろ前に触れていた、仏教や神道を否定して、キリスト教を求めるという次第でないのが始末が悪かった。カトリックの教えこそは完壁で、他の宗教は無根拠または未熟
であり、カトリックの信仰をもつ者だけが天国へ行ける
――といわれ、そしてシスター自身、両親がいまだに改宗してくれないから、このままでは死後、相会うことが望めないのが悲しい……などと聞かされると、慈愛いっぱいのシスターを前にして、内心、興ざめていくのがどうしようもなかった。
 それでも、先輩たちはみんな親切だった。「わかろうと思ってわかるものではない。洗礼をうけて、祈りの生活をするうちに、信ずる恵みをいただけるのだから……」先輩たちは新米の求道者に対して一○○パーセント寛大で、同じ宗教の枠の中でくらす温もりが、次第に私を魅きつけていった。

――こうして、一年ほど教理の手ほどきをうけたのちのクリスマスの夜 私は洗礼をうけた。先輩たちに祝福されながら、涙にくれて「神の恵み」に心からの感謝をささげた。
 しかし、その平穏は、わずかの間だった。婚約を白紙にもどすという相手からの宣告によって、クリスチャンホームの夢が消えた。絶体絶命の心境だった。だが、もはや私が祈るべき神は、キリストだけだった。私は必死に祈りにすがって暮らしながら、一方、心の底の底の方で、「本当は、どうなのか?」という声が、少しずつ、音量を増してくるのを感じていた。
「本当はどうなのか?」
――本当は、神の愛とはなんなのか? 本当に神は無私で全能なのか? 本当に宇宙のすべては神の摂理で動いているのか?……

それならば人間の努力や罪とはなんなのか?……疑問があとからあとから溢れ出し、私は、次第に祈ることが苦病になっていった。
 そんなある日、カトリックの先輩から「是非」といって一冊の本をすすめられた。本の名は『蟻の街の奇蹟』といった。先輩の好意に対する義務感から読みはじめた私は、読み進むにつれて、呼吸もわすれるほどに驚いていた。一気に読み終ったとき私にあったのは、「こうしてはいられない!」という思いだけだった。

『蟻の街の奇蹟』というのは、終戦直後に、東京、浅草の隅田川のほとりに生まれた、蟻の街という変った名の、バタヤ部落を描いた物語だった。カトリック信者の先輩がそれを読むことをすすめたのは、物語の主人公が、後に蟻の街のマリアと讃えられるようになった、北原怜(さと)子というカトリック信者の若い女性であること、そして、彼女が命がけで奉仕したことがもとになって、その貧しいバタヤ部落の人びとが、キリスト教を信仰するようになるに至った感動的な物語で、カトリックの推薦図書ともなっていたからだった。
 しかし、私がこの本に全身をゆさぶられたのは、そういうストーリーについてではなかった。この本の底には、私が一年間の教理の勉強中、まったく触れることができなかった、なにものかがある! 
――と直感したからだった。それは、かねがね私にとって、あるらしいのに、これと摑めない「なにか」だった。しかし、それ以上の見当は、なにもつかなかった。
 私は、紹介もなしに、蟻の街にとんで行った。その日、著者の松居桃楼氏は不在で、数時間待ったのち、日暮れちかくなって、やっと、僅かの間、話ができたが、こちらが、自分の知りたい「なにか」の外縁らしき所に、ちょっとふれて説明しただけで、答えはなにもえられなかった。「いっぺんで解決するくらいなら、あの本で間に合うはずだ……」私はそんなつぶやきを心でくり返しながら、雨の中を帰った。


 その後も続けて何回か訪ねて、時には無理に二~三時間ねばったこともあったが、その程度のふれあいで、「桃楼じいさん」の思想の真意をつかむことは不可能だった。逆に、話を聞けば聞くほど、私の頭は、混乱するのを感じた。しかし、あの本からうけたインスピレーションだけは薄れなかった。あの本の視線のむこうには、たしかに私のさがす神がいる……。このうえは、蟻の街に住み込んで食いさがらないかぎり、つきとめる可能性はない。しかし、それを、いくら頼んでみても、受けつけてはもらえなかった。
 いつか私は、宗教的無色の場に、自分を移していた。疑惑は他人ごとのようになり、それに伴って内面が空洞化していくことにも次第に無感覚になっていった。
 数年の月日がたって、まったく突然、「すぐ蟻の街へ来い」という速達が届いた。名宛てには、何年も前に辞した職場の付箋がついていた。簡単な文面に、こちらの現実については、一言もたずねてなかった。私はマスコミのニュースで、蟻の街が、浅草から深川の埋立地にめでたく移転できたことを知っていた。

……私に、疑惑とまともに取り組んでいた日々の、苦しみと生き甲斐が、一瞬のうちに蘇った。


 私はその日のうちに上京して新しい蟻の街にかけつけた。しかし、そこに住み込んでみた私は、間もなく、はげしい幻滅に叩きつけられていた。

 新蟻の街の人びとは、新天地にふさわしく、活気の中ではたらいていた。しかし、この人びとの生活の方向に、私がとりつかれている「なにか」があるとは思えなかった。そして桃楼じいさんは、といえば、浅草の旧事務所と称する、蟻の街発祥の小さな小屋に居残っていて、八号埋立地の新蟻の街には、ほとんど姿を見せないまま、まるで山奥の洞窟にこもる隠者そのままに暮らしていた。
「なあに、あのじいさんは、聖フランシスを気取っているんですよ」
――新蟻の街のある人が私に言った。

「わざと、これ見よがしに長いヒゲをはやして、ボロ服着て、食べものも、わざと粗末なものしか食べないで……でもねえ、所詮あのじいさんは……」
 オンボロ鎧兜(よろいかぶと)をつけて、やせ馬にまたがって、むなしい夢を追いつづけるドン・キホーテにすぎない、というのだ。
「あのじいさんは 原始キリスト教団の生括を現代に復活する
――なんて言ってますがね、ドン・キホーテが、色がさめちゃった騎士道精神を復活しようって空想したのと同じですよ。二○世紀のクリスチャンには、二○世紀の生活があるでしょう。二千年前のキリスト教徒の共同生活と言ったって、全然現実性がないじゃないですか。……気ちがい沙汰なんだなあ、考えることが……」
 私の、桃楼じいさんに対する期待は、急激にうすれはじめた。「もしかしたら、桃楼じいさんなる人物は、本当に気ちがいなのかも。それなら、以前、話を聞けば聞くほど、わからなくなったのは、当然かもしれない。私は『蟻の街の奇蹟』を買い被っていたのか? 蟻の街の人が言ったとおり、桃模じいさんが現代のドン・キホーテだとすれば、さしずめ、こうして呼び出されてきている私は、かのみじめな従士サンチョになってしまう怖れがある。やっぱり蟻の街から離れるのがいい。……次第に私の決心は固まっていった。
 とはいえ、かっては自分の方から一度ならず志願したことがある手前、簡単には「帰る」と言い出せなかった。それで思案の末、思い浮かんだ口実が「断食」だった。


     体と心の断食を

 

 私は一九歳のときからこれまでに、何度か断食をした。そして、いつも、思いがけない希望や発見を得てきたものだ。私の頼みとする断食寮は山口県小郡(おごおり)にある。寮長先生は父子二代にわたる天才的断食指導の大ベテランだ。入寮者が大てい病人なのに、「病気を治しに来た人は、帰ってください」
という調子で、言動がおよそ意表に出ることばかりだが、その片言隻句(へんげんせきく ちょっとした言葉)が、五年も十年もたってから、なんとなく理解できていたことに気がつく……。さあ、今度という今度は、私も病気なおしじゃない……。読みたくて読めなかった本も、たっぷり読めるだろう。東京から小郡はちょっとした距離だ。何となく蟻の街から去る助けになるかもしれない。
 ……しかし、少々うしろめたくもあった。いくら大した手伝いをしていないとはいえ、かりにも呼ばれてきた以上、一応、一人ぶんの仕事をあてにされているはずだ……。
 それが、実に意外だった。私が「断食しようと思う」というと、桃楼じいさんは即座に「それは大賛成だ」と答えたのだ。それまで何を提案しても相談しても「いけない」と言われたこともないし、積極的に「養成」されたことは、なおさらなかった。いつでも暖簾(のれん)に腕押しで、結局、なにごとも時間が運びたい方へ、運ばれてゆくだけだったのに。
 それで私は、少々とまどいながらつけ加えた。
「断食は、少くとも正味三週間ぐらい、それも前後をあわせて四十日は、したいのですが……」
「四十日片言隻句うん、それはいい。是非おやりなさい。ただしね、読むものはいっさい持って行かないこと。聖書一冊以外には、なんにも……」ところが、である。断食の第一日目の朝、いきなりドサッと、私あてのぶ厚い速達郵便が部屋に届いた。それは、桃楼じいさんからの封書で、中身は大型の薄葉罫紙二十枚ほどに、毛筆でビッシリと細かく走り書きした手紙
――というよりは、霊能者のお筆先きとはかくもあらんかと思われる、四百字詰の原稿紙だったら、優に四、五十枚はあろうという、大量のものだった。いぶかしい思いで読みはじめると「誰が誰から学ぶのではない 誰が誰に教えるのでもない……」という言葉ではじまっている紙面から、「心の断食」とか「瞑想」などの字が目にとび込んできたと思うと、何か暗号文ででもあるかのような、意味のつかみにくい、それでいて一気に迸(ほとばし)ったような文章が、ひしめき、溢れ出し、躍っている。私は、その、目がくらむような筆の気魄(きはく)に圧倒されてしまって、とても読み進むことができず、「あとで、頭の冴えている時ゆっくり読もう」と、封筒がはち切れそうな手紙を、備えつけの小箱に納めてしまった。
 だが、さらに驚いたことには、その翌朝、またもや、ドサリと、まったく昨日と同じ量の速達が届いたのだ。
――こうして、それから毎朝毎朝つぎからつぎと書き送られてくる、大量の講義録の洪水。それは、順調に、正確に進むものと予想された私の断食のコースにあわせて、むこう四十日間、休みなく続いて行くのであるらしいことが、次第に、私にも、わかってきた。
 しかもそのテーマは、まさしく、私がはじめて『蟻の街の奇跡』を手にした時に直感した、あの「なにか」についてに相違なかった。
 しかし、桃楼じいさんの心に、何十年秘められてあった宝が、今、順々に、私の目の前にひろげられている
――と、私が、うすうす気づいたのはなんと断食も七日に入ろうというころだった。
 しかも、私は、この鬼気迫る毎日の速達便を、まともに読むことは、ついになかったのだった。

 

 過去に数回経験した私の断食は、多少の差はあったにせよ、つねに結果は身心爽快、時にはまったく生まれ変わった感じで日常に復帰したことさえあったのだ。――だが、この時は、うまくいかなかった。
 断食第二日目がまだ暮れもしないうちに、もう、からっぽの胃袋から胃液を吐きはじめ、胃液がなくなると臓液や胆汁まで吐きつづけて、昼も夜も七転八倒のありさまだった。そのくせ心は、苦しい中からもフワフワと浮いて少しも集中できず、とにかく何から何まで、いわゆる断食の反応というのにはみじめすぎる、身も心も最低の状態が、六日たっても、七日が来ても、おさまろうとしなかった。
 私は前後あわせて四十日どころか、十日にも満たない途中で、断食を切り上げてしまった。その断食指導のキャリアと洞察力に、絶対信頼している寮長先生に、相談するどころか一方的に「都合」を匂わせさえして、私は断食寮を去った。補食期間さえ充分でなかったが、先生の方も、いかなる経過を見抜いていようとも、安易に翻意をうながすような人ではなかった。
 四十日の計画で進められていたらしい速達便の講義は、当然、中断した。退寮の当日まで、毎朝きまった時刻に、きまった重さの封筒が、ドサリ、ドサリと私の手に落ちてきたが、いつもざっと眺めただけで、どの一回分をも理解できなかった「心の断食」の講義は、一度も開いてみなかった聖書一冊とともに、少しの衣類など持ち帰る荷物の中に、耐えがたい重さで入っていた。
「これ、折角、毎日送っていただきましたけれど、ろくに読むこともできないで……」
 ふたたび蟻の街にもどって、桃楼じいさんの前に立ったとき、私はまだ、この毎日の速達が、睡眠時間も、食事時間さえも極限まで切りつめ、他の生活はすべて遮断した上で、ほとんど二、三分の誤差も許さない日課のもとに、瞑想しつつ、精力のあらんかぎりを傾けて書かれていた
――ということも、墨汁に毛筆は、手に力を入れずに最も早く、らくに走るから、また一三行薄葉罫紙は郵便料金節減の上から――選ばれたということも知らなかった。
 また、原稿など書いたことがなかった私は、それが原稿紙ならば、四百字詰で一日のぶんが、四、五十枚にあたる量であったことも、実はあとになって理解したのだし、一日も休まずその量を書きつづけるということが、いかに超人的なエネルギーの要ることかをさえ、認識したのは、ずっと後になってからのことだった。
 ……その、「心の断食」の講義の束を抱えて、私はおじいちゃんの前に立ち、なんとなくテーブルの上に置くと、頭を下げた。(また、そのうち、精読させていただきますから……)というほどのつもりだった。

「しかたがない……また、機会があったら、やり直しましょう……」

(……? やり直しましょう?……)私は、その言葉に一瞬、予期しない不思議さを感じながら頭を上げると、おじいちゃんは丁度、速達の束に両手をかけていた。(あ?)と思うスキもなく、おじいちゃんはその束をかかえ、ごく自然なもの腰で屋外に出ると、隅田川の川べりで、いきなり、それを燃やしはじめた。

 私は、その燃えあがる炎を、黙って見つめているよりほかに、どうすることもできなかった。

 ――今、なにが燃やされているんだろう?……そんな思いが、まるで空っぽの頭の中で浮かんだり消えたりしていた。

 

 

 

 

     二人の呼吸が一つになる時


 蟻の街を去る跳び板になるはずの断食が、逆に私をして、八号埋立地の新蟻の街をひき払って、強引に浅草の旧事務所に移り住まわせる結果になった。私は、みずから進んで、あえて桃楼じいさんという、現代のドン・キホーテの、従士サンチョになる決心をしたのだった。
 こうして、おじいちゃんをま近かに見ることができるようになった私は、またしても、自分の大きな誤算を思い知らなければならなかった。
 おじいちゃんの激忙は、実に予想外だった。その中で、私は何日もかかって頭の中でコネまわして、精一ぱい簡潔にした質問を、ここぞという時、投げかけてみても、答は返ってこなかった。以前は、答えを理解できないだけだったが、断食失敗後は、こと質問となると、真正面からの沈黙があるだけで、いっさい答えてもらえなかった。私は屈辱感や後悔やあせりでズタズタになりながらも、断食中との速達便の重みと、隅田川の岸であの何百枚かの薄葉罫紙が灰になっていった光景とに把らえられて、ふたたび引き返そうとはしなかった。
 そんな中で、しかし、桃楼じいさんの正体は、ますますつかめなかった。宗教的、芸術的、もろもろの学問的……それらについての経歴も知識も、私の目には、一個の人生としてあまりに絢爛というか雑多というか
――次第に、断片的に耳にする桃楼じいさんの資料が私の頭の中にふえるほど、私には信じがたい感じが淡くなっていくのだった。
 いずれにせよ、桃楼じいさんの思想が、常識的な意味でこれといったものの範疇(はんちゅう)には、納まるような何ものでもないことは、たしかだった。桃楼じいさんにとって芸術は医学であり革命でありその他もろもろであり、宗教は演劇であり経済でありその他もろもろであり、星も紙くずもコンピューターも、ピュタゴラスもトルストイもマホメットも、桃楼じいさんにとっては確固たる一つの「なにか」であり、そしてそれは、『蟻の街の奇蹟』以来、私にとってのとらえようのない「なにか」であるらしかった。

 だが、それにつけても、このおじいちゃんにとっての蟻の街とは、何なのだろうか? 社会福祉は? カトリックの信仰は?

 松居桃楼がクリスチャンであるということは本心なのか? ゼスチュアなのか? 今は亡き蟻の街のマリア・北原怜子さんへの心中だてなのか? それとも、蟻の街の都合のための政治性だろうか?……
 不審はまだあった。私が断食したとき、あの壮大激烈なお筆先きを書きまくった人が、どうして、こんな小さな蟻の街の問題にかかわって、わが骨を削るような思いをするのか?  所詮、誰からも理解されることがないと知りながら、なぜ疲労困憊(こんぱい)しつつ東奔西走し、蟻の街の存続のために策をしぼり出そうとするのか?  私は、おじいちゃんが蟻の街から報酬をうけずに、食うや食わずで、それをしていることを知ったときの驚きを、どんな言葉で言えるだろう……。ある日、とうとうそのことを口に出して尋ねたとき、「蟻の街は、わたしのユーモアだ。だからこそ命をかける意味がある……」
……私の疑惑は、深まるばかりだった。
 そういう状況の中で、ある時、毎月一回、桃楼じいさんの講話を聞きたいという、若者のグループが現われた。それは、民族、国家、宗教、そして政治でも経済でも文化でも、すべて集団についてまわる、利己意識の問題に突きあたり、実際問題として、どうしたら全人類にとって矛盾のない福祉に、奉仕して生きられるかを、真剣にさぐっているというグループだった。
 それまでに何度も、いろいろのスローガンを掲げた青年のグループが、かつぎ出しにきても乗ることのなかった桃楼じいさんが、めずらしく意気込み、寸暇を割いて、準備にとり組む気配が見られた。

 その第一回の講義が始まったとき、話の入り口は異っていたが、私はすぐ、あの「心の断食」がテーマだな? と思った。あれ以来、おそらくこの話は、誰にも語られていないはずだ。私は、やや虚を突かれたものを感じながらも、今度は無事に、最後まで進んでくれることを、祈る気持ちだった。
 けれども、やはりダメだった。グループの期待した内容と、桃楼じいさんが話したかったこととは、まったく噛み合わなかったのだ。あるいは、先ざきで何が語られるかを知っていれば、この人びとも熱心に聞きつづけたかもしれない。だが桃楼じいさんは、自分では徹底して綿密にカリキュラムを組みながら、しかも、それを聴衆に予告する人ではないのだ。それで第二回、第三回と、話が、砂漠の生活とか、宇宙のはじまりとか、クロレラ食などとなってくると、若者たちの空気が次第にシラけてきて、欠席者がふえ、ついに四ヵ月で無期延期ということになった。私は非常なショックをうけたが、おじいちゃんは、天を仰いでつぶやいた。「……もともと話というものは、話し手と聞き手の呼吸が、一つにならなければ、成り立たないものだ……」
 今度こそは、もう機会はのぞめないかもしれない。しかし、その憔悴(しょうすい)したおじいちゃんの顔をみて、もう、話してもらわない方がいいと思われてきた。


 それだのに、さっきから悦ちゃんにむかって語られているおじいちゃんの話は、どうも、あの話になるもようなのだ。もしかすると、今日こそは結論まで行くかもしれない――そう思いはじめると、私は自分の動悸が聞こえるほど、緊張してきたが、しかし、それは、かならずしも、聞けるよろこびではなかった。何といっても私がいまだに堂々めぐりして今日になっているのは、そのためではないか。私が今日まで、何の収穫もなくているのに、突然とび込んできた初対面の、しかも中学生なんかに、やすやすと語られてしまおうというのか!……私はいら立ちを抑えようと、水を飲みに立ったものの、それより早く、胸のモヤモヤが先に爆発して、まったく、われ知らず叫んでしまったのだった。
 しかも私は、この大失態をとり繕うどころか、さらに息をはずませて口走っていた。
「今日はもう、そのくらいになさったらいかがですか? いくらなんでも、中学二年の悦ちゃんには、むずかしすぎるでしょう」
 私の剣幕に、あっけにとられたおじいちゃんは、口を半分開いたまま私を見ていた。悦ちゃんは、反射的に私の方にふりむき、それから立ちあがると、断固として言った。
「わたし、約束したから聞いてるんです。さっき、おじいちゃんが、命がけで聞くんなら話してあげるって……わたし、命がけで聞いてるんです。……私には、むずかしくてわからないかもしれません、でも……」

「……?」
「おとなの人が、こんなに真剣に話してくれたの、はじめてです、だから……」
 悦ちゃんの目からポロッと涙がこぼれた。
 そういわれれば、ほんとうにこの少女は、屋上から飛び降りることを考えていたんだ。たとえ、この年ごろにありがちな感情の誇張はあるにしても、とにかくオーソドックスに説明される宗教に対して、納得できない、しかも納得できないと言わせてもらえない
――その二重の疑問を、どん薮におと旗にむかって擦つつけたかったか――信じたい気持ちがいっぱいだからこそ……しかも今日は強情にも断食宣言までしてるんだ。……やはり彼女は、おじいちゃんにとって、語るべき聞き手なのかもしれない……。


 思えば私は、『蟻の街の奇跡』を読んで以来、十何年間、咽喉まで出かかっている質問を、ついに口にすることができなかったのだ。
「松居先生は、ほんとうにキリスト教を信じていらっしゃるんですか?」という一言を。
 この悦ちゃんは、ズバリときいたではないか。私よりこの少女の方が、ずっとおじいちゃんを信じていたのだ……。
 気がついたとき、私のイライラは消えていた。


 

 

 

  第二章 ジャン・アストリックの推測

 

     旧約聖書は、何冊あるのか

「じゃあ、これ、お飲みになって、のどを痛めないようになさってください」

 私は、大きなコップに水を汲んで、おじいちゃんの前へ差し出した。おじいちゃんは、それを、いかにもおどけた恰好でおしいただいてから、ひと口飲むと、あとはそのコップを手のひらの上でかすかに動かしながら、いつまでも、中の水をすかしてみつめている。それは、まるで、中世期の錬金術師が、占い用の水晶の玉を凝視してでもいるかのような、なんとなく不気味なふんいきでもあった。

私は、少し不安になってきた。

「せっかくの、お話の腰を折って、すみませんでした。どうぞお続けください、その先を……」われながら、まだ、とげがあると思ったが、うまい言葉が出てこなかった。

 しばらくすると、おじいちゃんは、呪文でもとなえるような調子で、つぶやきはじめた。

「見えるんだよ。おじいちゃんには。……だんだん見えてくるんだよ……」その視線は、まだコップの水の中にある。


「旧約聖書には、天国へののぼり方が、永遠の命を手に入れる方法が、たしかに暗号でかくされている。しかも、その暗号解読用の鍵言葉のかくし場所も、おおよそ、『ここだ』と、見当がついた。だが、その鍵言葉を使って旧約聖書の謎解きにかかる前に、もう一つ用意しておかなければならない、大切な仕事が残っているんだ。
 それはね、ひと口に旧約聖書というが、まえにも言ったとおり、カトリックのもの、プロテスタントのもの、ユダヤ教のもの、など、いく種類もあるのだから、その中のどれを、原典(テキスト)として使うべきか、はっきり決めてかからなければならないということだ。
 それにしても、元来、その源は一つであるはずの、ユダヤ教とキリスト教が、そして同じ流れの中にあるはずの、カトリックとプロテスタントが、なぜ、別々の旧約聖書を使っているのだろうか?
まず第一に、その理由を知っておく必要がありそうだ。

 一六世紀のはじめごろに起こった宗教改革の直接の原因として、当時の聖職者の腐敗しきった生活などがあったことは、否定できないことだが、もちろん、そればかりじゃない。ローマンカトリック教会と、それに対抗する、いわゆるプロテスタント(異議主張派)との教義上の解釈のちがいが、一ばん根本的な論争の焦点であったことは、いうまでもない。しかも、その論点の一つに、旧約聖書の
正典として認めるべき書物はなになにか? という問題があった。

 というのは、その当時、ユダヤ教徒が使っていた、へブライ語の旧約聖書と、ローマンカトリック教会が使っていたラテン語のものとくらべてみると、ユダヤ教が公認している聖典の数は、たった二四冊なのに、カトリック教会のものは四六冊あるということが、大きな疑惑のたねとなった。つまり、プロテスタントの側から見ると、これはカトリック教会の主脳者たちが、キリスト教の教義を、自分たちに都合よく解釈するために 勝手に、二○冊以上の偽の経典を使っているに相違ない――と思えたからだ。

 それにしても、当時のキリスト教の旧約聖書が、数の上だけでも、ユダヤ教のものの二倍ちかくあるとは、どういうわけだったろうか? そのことの起こりは、キリスト教発生当時にもどらなければならないが、そのころのユダヤでは、いわゆる旧約聖書の正典なるものが、今日のように、完全に確定していたわけではなかった……ということは前にも話したね?
 ところが、紀元七○年に、ローマ軍の手によって、エルサレムの神殿が徹底的に破壊されつくしてから後は、ユダヤ民族の心のよりどころが、聖書にしか、なくなってしまった。それと同時に、新しく起こったキリスト教の布教師たちが、手あたり次第に、ユダヤ経典のあちらこちらから、好き勝手にいろいろの言葉をひき出しては、キリスト教だけに都合よく説明することに困りぬいて、ユダヤ教
の側でも、何が正典(カノン、つまり、神の啓示)で、なには正典でないかを、はっきりさせる必要が起こった。

 では、当時のユダヤ教の指導者たちが正典と正典ならざるものを、選別するに当って、特に神経を使ったことは、なんだっただろうか? それは、まず第一に、極端に国粋主義を謳歌したり、異民族征服を鼓吹するものを、なるべく避けることだったようだ。その理由は、エルサレム崩壊の大悲劇をひきおこした熱心党(ゼロタイzēlōtai)のような、無謀な暴挙を、今後二度とくり返さないためでもあるが、もっと大切なことは、ローマ帝国の役人や軍人はもとより、周囲の民族からも、ユダヤ人が必要以上に警戒されないためでもあったようだ。
 たとえば前にも話した、シリア王国の軍隊と戦って見事にユダヤ民族の独立をかちとった英雄マカベアのことを、くわしく物語っている二種類のマカベア書を除外したのは、あきらかに、そのためだと思う。

 そのほか、カトリックの旧約聖書の正典に入っていながら、ユダヤ教のものにないのは、トビト書、ユデト書、ソロモンの知恵、シラクの子イエスの知恵、バルク書などだ。しかし、それらのものを差しひいても、なお冊数が大きくくい違う理由は、キリスト教では、ホセアからはじまってマラキにいたる、いわゆる『十二小預言者』の書物(ホセア書、ヨエル書、アモス書、オパデア書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書)を、一冊ずつ別々にかぞえているのに、ヘブライ語の聖書では、『小預言者』という、一つのまとまった書物と、見なしているからだ。
 それからまた、キリスト教では、上下二冊にわけてかぞえているものを、へブライ語の場合には一冊として扱っているものが、ほかにも何種類かあるわけだ。
 そこで、こんどは、ユダヤ教の二四冊に対して、カトリック教会が正典として認めている四六冊は、いったい、なにを根拠としているのだろうか? ということが問題になってくる。

 

 手っとり早く、結論から先にいえば、初期のキリスト教徒が使っていた旧約聖書は、一般に『七十人訳』といわれる、ギリシャ語のテキストだった。それは、紀元前三世紀に、エジプト国王のプトレマイオス二世が、わざわざエルサレムから、七二人の聖書学者を、アレクサンドリアによびよせて、七二日間、(あるいは七○日間)で翻訳させた、と言いつたえられているものだ。
 だが、これは一種の伝説であって、実際は紀元前三世紀のはじめころから、前二世紀の後半にかけて、つまり、一世紀半以上の長い年月をかけて、次から次へと、非常に多くの人びとの手によって、数多くのユダヤ教の経典が翻訳されていったものらしい。しかしその中から、キリスト教徒が、どういう目やすで四二冊をえらび出したか? という問題が起こるが、そのことを論じはじめると話が非常にわずらわしくなるから、今は、説明しないこととして、とにかくここで、はっきりさせておかなければならないのは、今日、カトリック教会で正典とみとめている四二冊は、紀元九八年に、ユダヤ教の側が旧約聖書の正典を厳選する以前から存在していたものばかりであって、それまでは、外典だの偽典だのといって差別することを、一般のユダヤ人はしていなかった
――ということだ。

 ところが、その後(五世紀ごろになってから)、キリスト教側で、ラテン語しか使わない信者が多くなったために、ラテン語訳旧約聖書の決定版をつくることが必要になったとき、その当時のユダヤ教徒たちが使っているヘブライ語のものと比較してみて、数の上で大きな相違があることがわかって、驚いたんだ。しかし、結局のところ、カトリック教会はあくまでも従来どおり、四二冊を正典として認める方針を貫いて、現在にいたっているわけだ。
 ところが、さっきも言ったように、一六世紀に宗教改革が起こった時、率先してカトリック教会から離れたルーテルは、旧約聖書をドイツ語に訳すにあたって、ユダヤ教徒が正典とみとめていない七冊(トビト書、ユデト書、ソロモンの知恵、シラクの子イエスの知恵、バルク書 第一マカベア書、第二マカベア書)を、はっきり外典として、一種の付録のようにあつかうことにした。それ以来、プロテスタント側では、旧約聖書を出版する場合には、問題の七書を付録あつかいにするのが習わしになったが、そのうちに、それらをまったくのせないものが多くなって、今日では、ついに、旧約聖書といえば、ほとんどの人が、あとにも先にも、三九冊の、プロテスタントのものばかりだと、思い込むようになってしまった。
 しかし、歴史的にたどってみれば、あきらかに二四冊のヘブライ語聖書と、三九冊のプロテスタントのものと、四六冊のカトリックのものが存在しているわけだ。
 となると、例の旧約聖書の謎解きは、いったいどれをテキストに選べばいいのだろうか……。だが、問題は、それだけではない。かりに、この三種類のうちの、どれかを選んだにしても、その中に書かれている文章のすべてが、果たして、最初から今日のものと同じだったか、どうか? 途中で改ざんされたり、間違って写されていたりするようなことはないのか? という問題が起こってくるわけだが、実は、この問題こそが、旧約聖書を研究するうえで、一ばん根本的で、しかも一ばん重要な焦点なのだ。

     聖書至上主義という考え方
 
「ところで悦ちゃんは、Fundamentalism(ファンダメンタ
リズム)という言葉を知ってるかい? ここに英和辞典があるから、自分でひいてごらん……ほら……なんて書いてある?」
「正統派キリスト教。聖書の、創造説を固く信じ、進化説を全く排す……」
「正統派キリスト教と訳してしまうと、なぜそういう名がついたのかわかりにくいが……そもそもファンダメンタリズムの語源になっているファンダメンタルという言葉は、基本とか根本とか原理・原則の意味だったね。だから、ファンダメンタリズムというのは、『聖書に響いてある言葉は、その一宇一句が、すべて神の言葉であって、絶対に正しいのだから、少しでも批判めいたことを口にしたり、心に思ってはならない』という、根本原則を、徹底的に強調する主義なんだよ。
 それにしても、ひと口にファンダメンタリズムといっても、その人、そのグループによって、いろいろの考え方があるわけだが、ごく極端なファンダメンタリストになるとね、教会や信者の家庭ではもちろんのこと、公立の学校でも、『聖書に書いてあることと矛盾するような学問は、いっさい教えてはならない』と主張するわけだ。
 さあ、そうなると、第一に問題になるのが、ダーウィンの進化論だ。なにしろ、旧約聖書の創世記では、神が人間を造った
――それも、アダムとイブという、今日のわれわれとほとんど同じような、顔やかたちの人間を造った――と、はっきり書いてあるのに、進化論では人間は、もっと原始的な状態から、だんだんに進化して、いまのようになった、と説明しているのだから大変だ。そこで、今世紀のはじめに、アメリカで、えらい悶着(もんちゃく)が起こったんだ。
 なにしろ、アメリカ合衆国の南部では、今日でもファンダメンタリストが非常に多いんだが、とくに二○世紀のはじめごろはその勢いが最もさかんだった時代で、一九二五年にテネシー州で、『進化論を学校で教えた教師は、刑罰に処す』という、法律が決められた。そして、実際に、その年のうちに、進化論を学校で教えた先生が、裁判の結果、有罪宣告をうけて、一○○ドルの罰金をとられるこになった。

 この裁判については、当時、アメリカばかりでなく、全世界から、猛烈に非難の声がまきおこったが、ファンダメンタリズムの運動は、それとは逆に、ますます激しくなる一方で、一九一一六年には、ミシシッピー、一九二八年にはアーカンソー、それから一九二九年にはテキサスで、同じような法律が制定されたんだ。
 もっとも、ただ一九二五年と聞いただけでは、悦ちゃんには、遠い昔むかしのことのように思えるかもしれないが、一九二五年は、日本の大正一四年で
――
「いいえ。今のひとは、西暦でいうほうが、ピンと来るのよね?」私は、悦ちゃんに同意を求めながら訂正した。

「ああ、そうか、とにかく、昭和元年の前の年だ。第一次大戦が終ってから、七年も後の話になる。
――だから南部出身で、今日のアメリカ社会の中堅層や指導者層にあたる人たちの、大ていは少くとも青年時代は、そういう風潮の中で教育されて来たわけなんだ。
 それにしても、そういうふうに、聖書の権威を絶対なものと信じこんでいるのは、いわゆるファンダメンタリストだけだろうか? どうも、そうとばかりは言いきれないものがあるんだな。
 いや、それどころか、現代でも、世界中のキリスト教の教会で行なわれている説教とか、宗教行事の、ほとんどすべてが、基本的には、やっぱり聖書至上主義の上に成り立っているとさえいえるくらいだ。

 しかし、今日の欧米人の、知識階級の多くが、その心の奥ふかくにあるものはともかくとして、少くとも表面上は、それほど極端な聖書至上主義者とは思えない言動をしているのは、なぜかというと、まあ大ざっぱな理由として、それはヨーロッパが、一八世紀の啓蒙思想という、思想上の大きな嵐の中をくぐりぬけてきているからだといえるだろう。
 では、その啓蒙主義の時代に、ヨーロッパのキリスト教の世界では、どんなことが起こっていたのだろうか?

     啓蒙思想の嵐の中で


「悦ちゃんも、来年になれば、学校で西洋史の時間に習うんだろうが、要するに啓蒙思想というのは、それまで無条件に絶対的な権力をふるってきた、国王とか貴族とか、教会の聖職者などの、言うなりになっていないで、世の中の、あらゆるものごとを、もっと合理的な目で見直して、どうしても納得できないことは、遠慮なく批判していこうという考え方だ。その運動に加わった人の中には、モンテスキューとか、ヴォルテールとか、ルソーというような、いろいろの面で、後世に大きな影響を与えた人たちがいるが、ことに、そのころのフランスの進歩的な学者の大部分を結集して、一七五一年から二○年あまりかけて編集した、百科全書(アンシクロペデイ  L'Encyclopédie)は、一八世紀の後半から一九世紀にかけてのヨーロッパの思想界に、大きな波紋をまきおこした。
 ところで、ちょうどその百科全書が出版されはじめたばかりの、一七五三年に、『もとの覚え書についての推測』という、奇妙な題名の本が、ベルギーのブリュッセルで、匿名の著者によって発刊された。この題名を正確にいえば『モーセが創世記を作成するために用いたと思われる、いくつかの覚え書についての推測』だが、実は、この本を書いた人は、フランス国王ルイ一五世の侍医もつとめたことのある、ジャン・アストリックという、フランス人の医者で、間もなく七○歳になろうという老人だった。

 この老医師が、なぜ、こんな、へんな題名の本を書いたかというと、彼は若いころから、旧約聖書に関して、ある疑問を感じていた。彼は長い間、自問自答をつづけてきて、『旧約聖書が書かれてから、すでに何千年もたっているのだから、自分と同じ疑問をもった人はいくらでもいるだろう。そればかりでなく、その長い年月の間には、無数の偉大なる聖害学者が、あらゆる角度から聖書を研究しつくしているのだから、当然、私の疑問に対する明快な解答が、すでに出ているに相違ない』と考えていた。そこで彼は、徹底的に、聖書に関する解説書をよみあさった。しかし、不思議なことに、自分と同じ疑問をもった人は発見されず、なおのこと、自分の疑問に対する解答を書いた書物に出会うこともできなかった。
 そうこうするうちに、ジャン・アストリックは、七○歳に手のとどく年になってしまった。思いあまった彼は、いくたびもいくたびもためらった末に、自分が日ごろ感じている疑問を、率直に述べたうえで、自分なりの解釈も加えて、それが果たして、正しいかどうかを、世に問おうと、決心したんだ。それが、『もとの覚え書についての推測』という本を、ひそかに出版したいきさつだった。
 では、この、ジャン・アストリックという老医師は、旧約聖書に関して、どんな疑問をいだいていたのだろうか?


 彼は旧約聖書を――ことに、その最初に出てくる創世紀を、ていねいに読んでいるうちに、奇妙なことに気がついた。それは、創世記には、ほとんど同じ内容の記事を、二回くり返して書いてある例が、意外に多い、ということだった。
 たとえば、創世記の第一章(--1〜二-4A)と、第二章(二-4B~24)には、この世のはじまりの物語が、二回くり返されている。次に、ノアの洪水の話のところでは、箱船に入れられた動物の数の問題(七-2、七-9)をはじめ、洪水の期間の描き方も、洪水のあとの、神の祝福や、神とノアの契約の様子にも、たしかに二種類の文章が、からみあっている。
 そして、その先の、アブラハムの物語では、女奴隷ハガルの親子を追い出す話が、一六章と二一章でくり返されており、アブラハムが、妻のサライを妹だといつわった話にいたっては、一二章と、二○章でくり返されるだけでなく、二六章では、イサクの妻の話として、もう一度、同じ内溶のものがあらわれてくるという始末だ。
 いったいこれは、どういうわけだろう?……と、ジャン・アストリックは、首をかしげた。そして、さんざん考えぬいたあげくに、『創世記の著者は(それは神がモーセに書かせたものだと、教会では、昔から教えているわけだが)、この聖典を書くにあたって、手もとに二種類の資料をもっていたに相違ない。そこで、その、双方の資料から、適当に抜粋しながら、一つの文章にまとめあげる作業をしている間に、あやまって、二つの資料に関する覚え書を、そのまま、くり返して挿入するという、手違いを起こしたのではあるまいか?  というのが、ジャン・アストリックの考えた『もとの覚え書についての推測』だった。

 

 もっとも、後の研究によってわかったことだが、聖書の中で同じ話がくり返されていることについて疑問を感じた人は、ジャン・アストリックが最初ではなかった。その前にも、ごくわずかながら、そのことに気がついた人があったのだが、誰からも相手にされず、いつも、その場かぎりの問題として葬られた。その理由は、いうまでもなく、『聖書に関して、批判がましいことを言ってはならない』という、あの根本原則があるからだ。
 だが、ジャン・アストリックが、『もとの覚え書についての推測』を発表したときは、さっき言ったように、いわゆる啓蒙主義の運動のおかげで、世の中の、ものの考え方が、少しずつ変わりはじめている時代だったし、その上、彼の研究方法が、きわめて級密で、しかも合理的だったことが、その後の、進歩的な聖書研究家たちの目をひく原因ともなったわけだ。
 それにしても、ジャン・アストリックが、その著書を通じて、いろいろと推測した問題の中で、ことさらに多くの学者たちの研究心を、強くゆり動かしたのは、いわゆる『二種類のもとの覚え書』なるものには、その文体や、ものの考え方に、根本的なちがいがあるばかりでなく、へブライ語の原典によれば、一方の型のものでは、神のことを『ヤハウェ』という言葉で言い表わし、もう一方の型のものでは『エロヒム』という言葉で書いている
――という事実をはっきり指摘したことだった。
 この、一見なんでもないような、ささいな違いの発見が、百科全書三五巻の刊行に、まさるとも劣らぬほどの、大きな事件を、その後の聖書研究の歴史の上に、ひきおこすことになってしまったのだ。
 では、そのヘブライ語の『ヤハウェ』と『エロヒム』という言葉には、どういう違いがあるのか? 
――その区別を、はっきりさせることから始めよう」
 おじいちゃんは、だいぶ、なまぬるくなっていそうなコップの水を、おいしそうに飲みほしてから、そのまますぐ話をつづけた。

 

 

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二人の呼吸が
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第二章ジャンアストリック
聖書至上主義
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3426331-ドンキホーテとサンチョパンサ-(スペイン)-マドリードのスペイン
啓蒙思想の嵐
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体と心の断食を
エロヒムとヤハウェの違い

  第三章 モーセの五書は誰が書いたのか

     エロヒムとヤハウェの違い


「話をわかりやすくするために、エロヒムの説明から先にする。エロヒムというのは、ヘブライ語で神を意味する普通名詞、つまり英語ならGod(ゴッド)で、日本語の聖書では神と訳している。ただし聖書の中では、ユダヤの神ばかりでなく、異教徒の神について語る場合にも、エロヒムという言葉を使っているということを、知っておかなければならない。
 それに対して、ヤハウェというのは、ユダヤ民族独自の神様の固有名詞で、人間でいえば、悦子とか桃楼というようなよび方だ。
――といってしまえば、ことはまことに簡単だが、これからが、少々複雑になってくる。
 もっとも、それに似たことは、現代のわれわれだってやっているんだが、たとえば、悦ちゃんのお母さんの名前、なんといったっけ?」
「摂子です。多田摂子」
「それで、悦ちゃんは、お母さんのことを、なんとよぶ?」

 「ママ」
「よそのひとに、お母さんのことを話すときには?」
「うちのお母さんが……とか、母が……とか」
「面とむかって『摂子』とよびかけたり、よその人に『うちの摂子が』なんていわないだろう。それと同じように、ユダヤ人は、絶対に、彼らの神の名前を、口に出していわないことになっているんだ。
……でも、へブライ語の聖書には、ちゃんと、ヤハウェ(YHWH)と書いてあるのだから、朗読するときには、口に出してそう呼ぶことになるじゃないかと思うかもしれないが、実は、YHWHと番いてあっても、それは、ヤハウェとは読まないで、かならず、アドナイと発音することになっているんだ。じゃ、アドナイとは何だろうか?


 アドナイというのは、英語でMy Lord(マイロード)、日本語の聖書では『わが主』と訳している。これは、相手を尊敬して呼びかける言葉なんだから、普通の人間にむかって、たとえば、先生とか、旦那様とか、ご主人様とかよびかける場合にも、アドナイなんだ。
 これが、ギリシャ語の聖書では、キュリオス、ラテン語では、ドミニュスと訳されているが、キュリォスというギリシャ語は、その当時の皇帝を、神と同格視してよぶ場合も、やっぱりキュリオスだったんだから、このヘブライ語の、アドナイという言葉の使用範囲もまた、大そう広いわけだ。


 ところで、さっき、おじいちゃんはヤハウェという言葉は、YHWHと書くといったが、それはヘブライ文字を、ヨーロッパふうのアルファベット文字におきかえたものだから、あまり正確ではない。
そこで、JHVHとか、IHWHと書く人もある。
 そのうえ、ほんとのことをいうと、このYHWHという四文字を、どう読むべきかは、誰にもわかっていないんだ。ヤハウェという発音のしかたは、長年にわたって、多くの学者が研究した末に、多分こんなふうだろう、と想像しただけの話で、間違いなくそうだ、と断定されたわけではない。だから、ヤァウェとか、ヤーヴェとか、いくぶん変わった読み方をする人もある。
 なぜ、話が、そんなにこみ入っているかというと、そもそも、この聖なる神の固有名詞は、大昔のユダヤでは、一年に、たった一回、エルサレムの神殿の奥で、大祭司だけが、神にむかってよびかけることを許されていたのだが、紀元七○年のエルサレムの大崩壊以後は、その読み方を伝えられている唯一の存在だった大祭司の死とともに、その秘伝がまったくとだえてしまって、その後、ユダヤ人は誰一人、正碓な読み方を知らなくなってしまったのだ。
 なにしろ、大昔のへブライ文字は、一応、表音文字の一種にちがいないが、子音ばかりで、母音がなかったから、一語、一語、その単語の正確な読み方を、先輩から口伝えで習った人でなければ、その文字を、どう発音するのか、誰にも、わからないしくみになっているんだ。ユダヤ人の聖書研究家の中には、いまだに、へブライ語旧約聖書全体を、神の暗号文書として、その謎解きに挑戦している人があるというのも、その原因の根本は、そこにあるわけだ。


 さて、こういったことを承知の上で、もう一度、旧約聖書、ことに創世記に出てくる神様のよび方の問題を、ふり返ってみると、へブライ語の場合には、原則としてエロヒム(即ち神)と、YHWH(それをヤハウェとは発音しないで、アドナイ、つまり主と読む)という二種類の言葉が使われていることが、わかった。
 だがそれは、一人の繁者が二つの言葉を気まぐれに使いわけたのではなくて、『エロヒムという言葉を使っている覚え書』と『YHWHという四文字を使っている覚え書』の、それぞれの筆者は、別人だったのではあるまいか?……という疑問を、はじめて聖書研究家たちの一部に起こさせたのが、ジャン・アストリックの本だったのだ。
 それにしても、ジャン・アストリックは、彼の著書の中で、あくまでもつつましく、創世記をはじめとする、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、五つの書物の筆者が、モーセであるということを、従来どおり認めたうえで、そのモーセが、彼の五つの書物をまとめあげる前提として、少くとも二つ以上の異った書を使ったはずだ
――いう以外の主張はしなかった.
 だが、同時にそのことは、旧約聖書の中で最も重要な、いわゆる五書とよばれる書物が、『神によってモーセに語られたものではない』ということを、はっきり示唆することになってしまった。

 さあ、そこで、この問題が、やがて一八世紀末から一九世紀にかけての聖書研究家たちの問で、次から次へと、とめどなく連鎖爆発を起こすことになってゆくわけだが、気の毒なことに、ジャン・アストリックは、彼の『もとの覚え書についての推測』を出版してから一三年も生きていたにもかかわらず、後日、それが世界中に大きな反響を起こすことになるのを見ずに、一七六六年、八二歳でこの世を去ったのだ。
 では、ジャン・アストリックの推測が、本当に世の中から支持されるようになったのは、いつごろのことだったのだろうか?

     聖書批判学者たちの苦闘


 「ドイツのJ・G・アイヒホルンという学者が、ジャン・アストリックの著書に刺激されて、創世記をあらためてくわしく調べ直した結果、『なるほど、これは、一つの資料にもとづいて書かれたものではない』と認めて、その研究を正式に世間に発表したのは、『もとの覚え書についての推測』が出版されてから二八年後、ジャン・アストリックが死んでから、一五年後の、一七八一年(アメリカ独立戦争のさ中)だった。
 これをうけて、さらに一七年後の一七九八年(フランス並命の終りごろでナポレオンがエジプト征途にむかった年)には、K・D・イルゲンという学者が、エロヒムという言葉を使っている部分でさえも、よくよく分析してみると、その背後には、少くとも二つの源泉がありそうだ』と主張した。
 それからひき続いて、三人の別々の学者が、モーセの五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は、すべてバラバラの文章をつなぎあわせたもので、一人の筆者によって一貫して書かれたものではない』という説を、となえはじめた。
 ことに、その三人の中の一人であるデ・ウェッテ(De Wette)が、『五書の中でも、とくに申命記は、他の四冊の編集者とは別人によって編集された、まったく独立した性格のものだ』という意見を発表して、世の中を驚かせた。

 このデ・ウェッテは、後世の学者たちから、『モーセの五書に関する研究の画期的な創始者』と、たたえられた人だが、その後、ある事件に連座したかどで、一時、神学教授の職を追われる羽目になった。しかし、彼が教職を追われた本当の原因は、聖書に対するあまりにも急進的な意見を発表したことにあったらしい――と、伝えられている.それにもかかわらずデ・ウェッテは一生涯その初志をまげずに研究を続けた結果、一つの仮説をうち立てた。
 それは、モーセの五書は、まず最初に、エロヒム(神)という言葉を使った文章による部分が基本になっており、それ以外のものは後日、次第に加筆されていったものだ』という意見だった。そして、この、最初にエロヒム(神)という言葉を使って書いた筆者を、仮りに、エロヒスト エロヒム記者)とよぶことにした。そして、このエロヒストと対照される、ヤハウェ(YHWH)という文字を使って書いた筆者を、その後、ヤハウィスト(ヤハウェ記者)とよぶようになった。
 それにしても、このデ・ウェッテは、エロヒスト(エロヒム記者)を、一応、一人と解釈していたのだが、彼の死後になって、かつてK・D・イルゲンが、『エロヒストは一人ではない』と主張したことが思い出されて、一九世紀の中ごろになると、従来のエロヒストを、第一エロヒスト、第二エロヒストと、区別するようになった。こうして、その時以来、『モーセの五審は、最初、第一エロヒストによって書かれ、それからヤハウィスト、その次が第二エロヒスト、そして最後に、例の申命記を書いた申命典記者
――という順序で、四つの時代に、別々の人によって書きつがれて行ったものだ』という、もう一つの仮説が立てられた。
 ところが、この仮説は間もなく、また別の学者(K・H・グラーフ)によって訂正された。彼は、第一エロヒストが番いたといわれる文章を、徹底的に分析した結果、『それが書かれたのは、従来考えられていた四つの時代よりも、さらに新しく、おそらくユダヤ民族のバビロニア捕囚(紀元前五九七年~五三六年以後のことであり、この部分を書いたと想像される人(あるいは集団)は、ユダヤ教の祭司だったに相違ない』と断定した。そこで、それまで第一エロヒストとよばれていた人(あるいは集団)のことを、新しく祭司的記者と称するようになった。
 つまり、モーセの五書を書いた人びとの順序は、ここで改めて、最初がヤハウィスト、次がエロヒスト(以前の第二エロヒスト)、第三が申命典記者、そして最後が、祭司的記者(以前の第一エロヒスト)というように結論づけられたわけだ。
 当時のヨーロッパのキリスト教徒たちは、次つぎと打ち出される、これらの研究発表を、ある者は驚き、ある者は怖れ、ある者は憤激しながら、そのなりゆきを見護っていたわけだが、最後に、『旧約聖書批判学のダーウィン』と仇名されたJ・ウェルハウゼンが現われて、このグラーフ説を徹底的に支持したことによって、これまでユダヤ教徒やキリスト教徒が、少くとも二千年以上信じきってき
た『モーセが神のお告げにもとづいて五番(創世記、出エジプト記、レビ紀、民数記、申命記)を書いたのだ』
という言い伝えは、根本からくつがえされることになってしまった。

 このJ・ウェルハゥゼンという学者がドイツに生まれたのは、一八四四年で、例の、『もとの覚え書についての推測』が出版されてから、間もなく一○○年になろうとするころだった。彼は二八歳で、北ドイツのある町の神学校の教授となり、その在職中に、そのころ問題になっていたグラーフの仮説を、全面的に支持する、グラーフ・ウェルハウゼン理論』なるものを確立した。
 ところが、たまたまその地方は、非常に保守的なルーテル派の根拠地だったので、彼が、モーセの五書判の論文を発表しはじめると同時に、もの凄い非難の嵐がまき起こった。そのために彼は、神学教授の職を辞さなければならなくなった。そして一○年ほどしてから、別の土地で教鞭をとることになったが、
それも、神学の教授としてでなく、単なるヘブライ語の非常勤講師の地位しか、与えられなかった。

 したがって、最初のうち彼のへブライ語の講義などを受けようとする学生は、ほんの僅かしかいなかった。――にもかかわらずウェルハウゼンは、へブライ語の講師など表向きのことで、実際には、くる日もくる日も、『旧約聖書が、中でもモーセの五書なるものが、いかにして成立したか』を、こと細かに分析してみせたのだ。
 彼がとくに力を入れたのは、『モーセの五書が今日のような内容にまとめ上げられたのは、せいぜい紀元前五五○年ごろから前四五○年ぐらいの間の時代であること、そして、それを最終的に完成した人物は、言うまでもなくモーセではなくて、そのころのユダヤ教の祭司たちであったこと』を、徹底的に立証することだった。
 彼の熱のこもった、説得力のある講義をきいた学生たちは、感動した。ウェルハウゼンの評判は、たちまち学校じゅうに知れわたった。間もなく、彼のへブライ語の教室は聴講生であふれ、しかもやがては、その学生たちの中から、ウェルハウゼンたちが、細ぼそと開拓しはじめた聖書批判学を、自分のライフワークとして専攻しようという者が、続出するようにさえなった。
 こうして、それまでは世の中から、『常軌を逸したごく少数の、大ボラ吹きたちが語る、こじつけ話』と嘲笑されてきた、旧約聖書批判の問題が、はじめてその頃から、ヨーロッパの有識者の間で、まじめな話題として取り上げられるきざしが出て来たのだった。
 だが、それに対する反対運動もまた、爆発的に大きくなってきた。ことに、それがいちじるしかったのは、前にも言った、アメリカの、ファンダメンタリストの一派だった。


 ユダヤ人にとっての神の律法とは


「ウェルハウゼンが、ヨーロッパで例の『グラーフ・ウェルハウゼン理論』を熱烈に説きはじめたころ、アメリカのファンダメンタリストたちは、聖書批判に対抗するための協議会を、くり返して開いた末、『ファンダメンタリズムの根本的な原則といわれる五項目』を発表した。その内容は、

 イエスは、まちがいなく神であること
 イエスが、処女から生まれたこと
 イエスによって、人間の罪があがなわれること
 イエスが再来して、神の王国を建設すること……

 

などを再認識すると同時に、とくに第一項目として挙げられたのは、聖書はすべて神聖な霊感によって書かれたものであって、そこには一点の誤りも存在しないという信念を確立すること――だった。
 こうして、ファンダメンタリストたちは、その『聖書の一語一語はすべて神の言葉である』という信条を、あらためて宣伝するための文書を、続々と出版して、アメリカ国内ばかりでなく、全世界に配布した。また一方ではキリスト教各派の神学校に、聖書を軽んずるような悪魔的な思想が潜入することを、厳しく取り締まって、異端者を発見したら、容赦なく追放することを申しあわせた。
 そればかりでなく、厳格なファンダメンタリズムで教育した若い宣教師を、伝道のために続為と外国へ派遣した。
 このような、聖書批判派の意見を撲滅するための、ファンダメンタリストの大攻勢が、最も激烈をきわめたのは、大体一八八○年代から、一九二○年代の終りごろまでなのだが、それは、日本でいうと、いつごろになるか、わかるかね?」
 悦ちゃんは、そう聞かれて、私をふりかえった。彼女も数につよくないらしい。
「……明治は四五年、大正は一五年、いまは……」私は、紙きれに表を書きながら、やっと割り出して答えた。

「一八八○年は明治一三年で、一九二○年代の終りは……一九三○年が昭和五年ですね……」
「そうなんだ。つまり、われわれ一般の日本人がキリスト教というものにはじめて触れたのが、この時代だったということだ」
「その時期に、キリスト教の知識も、宣教師も、急激に日本に入ってきたというわけですね?」と私。
「その代り、ヨーロッパの聖書批判学の方は、日本人の耳には入らないでしまった。そういうのは、
悪魔のわざとか異端ということでね」
「でも、その聖書批判学の人たちの意見を、もしも認めるとなれば、おじいちゃんの謎解きは、どうなるんですか? モーセの五書が人為的につくられたもので、しかも、何べんも、いろんな人によって書き足されたり、書き直されてしまったとしたら……今、私たちが持っているこの旧約聖書は、暗号解読用のテキストとしては、役に立たないことになりはしませんか?」私は、ちょっと得意らしい気持ちで質問してみた。
「ところが、それは大丈夫なんだ」と、おじいちゃんはニッコリする。


「くわしいことはあとで説明するとして、モーセの五書が、めったやたらにいろんな人の手にかかって改ざんされたのは、紀元前五世紀の終りか、四世紀のはじまりまでのことなんだ。だから、それからあとは、むしろ完全に固定化されて、一点一画をも、改めることが許されなくなった。――つまり、ここが、暗号解読用のテキストとして、重要なポイントになるわけだ」
「でも、おじいちゃんは、さっき、旧約聖書にはヘブライ語のが二四冊とかで、四六冊のカトリックのと、プロテスタントのは、三九冊という違いがあるっておっしゃったでしょう? その問題は、どうなりますか?」私はくいさがった。
「その点は、おじいちゃんも最初、少しばかり不安だった。だがね、鍵言葉のかくし場所として、ど
うやら怪しい黙示録をよく読んでみると、前にいくつか例をあげたように、その構成が、まったく創世記と対照的になっているということは、問題の暗号がかくされている場所は、創世記のどこか――まあ、少々範囲を拡大しても、せいぜい、創世記書むモーセの五番の中と思っていいらしい――となると、今、われわれが手にしている聖書はプロテスタント系のもので、この旧約聖書には、三九冊しか入っていないが、モーセの五書を調べるには、これで充分なんだ。……もちろん、ごく細かな字句のちがいについては、なにがしかの異論をとなえる聖書学者がないではないが、とにかく大筋からいえば、今日、われわれが使っているモーセの五書は、ユダヤ教のものにせよ、キリスト教のものにせよ、それのまたカトリックにせよプロテスタントにせよ、その内容には、大差がないのだから。

 さあ、そうなったら、いよいよこれから、もう一度もとにもどって、旧約聖書の暗号を解くための鍵言葉はなにか? ということをつきとめるための、最終的な作業にとりかからなければならないわけだが、おじいちゃんは、さっき、どこまで話したんだつけ?……」と言いながら桃楼じいさんは、気ぜわしく聖書をめくりはじめた。


   第四章 鍵言葉は666


     四二番目のところ


「……うん、この一一章を出してごらん」おじいちゃんはヨハネの黙示録のページを開いている。
「第七の天使がラッパを吹いたという、この第一一章をふくめて、そのあとの、第一二章、一三章、一四章の間に、鍵言葉がかくされているらしい
――というところまで話したんだったね。なにしろ、この四つの章だけには、七という字が、ほとんど出てこない。そのかわり、旧約聖書の中で一ばん怪しいと思われるダニエル書にあった、『ひと時とふた時と半時の間』という言葉と無関係とは思えない、四二ヵ月という言葉が、いかにも意味ありげにくり返されている。とすると、この四二という数字が、鍵言葉をさがしあてるための、第二ヒントではないだろうか? ということになるのだが、では、この四二という数字は何を表わしているのか? おそらくそれは、なにか重要な一点から数えて四二番目のところに、問題の鍵言葉がかくされているということではないだろうか――と思うんだ。
 では、その重要な一点はどこにあるか? まず第一にそれらしく思われるのは、第七の天使が第七番、のラッパを吹き鳴らした時、つまり、第一一章の、第一五節だ。その理由は、前にも話したと恩うが、第一○章の第七節には、
 
 
第七のみ使いが吹き鳴らすラッパの音がする時には、神が、その僕、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される

 

とあり、第二章第一五節には、

 第七のみ使いがラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起こって言った。『この世の国は、われらの主と、そのキリストとの国になった。主は、世々かぎりなく支配なさるであろう』……そして天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた


と書いてある。
 このように第一○章では、そのものズバリと『神の奥義が成就される』と書いてあり、いまの第一一章では『契約の箱が見えた』と述べているのだ。契約の箱というのは、神がユダヤ民族を救う約束を告げた言葉を、書き記したものが秘蔵されている錆なのだから、それが兄えたということは、神の奥義が明かされたのと同じことだといえるだろう。

 そこで、もし、この第七の天使がラッパを吹き鳴らした、第一一章一五節を、謎解きの起点と仮定したら、ここから数えて四二番目に当る所をさがすためには、何を、どう数えていけばいいのだろうか?……実は、ここで、ちょっとした壁につきあたるんだ。

 実はおじいちゃんとしては、この第二章一五節から数えて四一一節側のところを、さがし出したいが、それならば、その章や節の区切りは、聖書にはじめからつけてあったのか? というと、残念ながらそうではない。章の区切りは一四世紀以後、そして節の区切りができたのは、一六世紀のなかば以後といわれている。
 となると、ヨハネの黙示録の著者は、自分の文章に、何章とか何節という区切りをしていなかったことになる。したがって、『何節目』というような考え方は、まったく無意味だといえないこともない。
だが、それは、聖書の写本や印刷に関する歴史を、ごく表面からだけ見た場合の考え方で、重要な文群を、一宇一句、誤りなく群き写していくには、重複や脱落をさけるためにも、また、原典と比較校 四正しやすくするためにも、本文を適当に区切って数える習慣が、なかったはずがないと思われるのだ。

 現に、今日、われわれが使っている旧・新約聖書の章や節の区切りなるものの中で、その文章の意味とはあまりにも無関係で、行きあたりばったりという感じに区切ってあるところが多いのも、その原因はこの区切りが、写本をするために便宜上つけられたもの――だったからだとも言えるだろう。

 したがって、今日われわれが考える『章』という概念はなかったかもしれないが、その反面、当時の著者たちが、後日書き写す人の立場を頭に置いて記述したならば、節(Verse ヴァース)ということに、かなり神経を使ったに相違ないと想像されるわけだ。
 
とすると、今日われわれが読んでいる聖書の節の区切り方が、ヨハネの黙示録の著者のイメージと完全に一致はしてないかもしれないが両者の間に、そう大きな開きはないはずだ
――と思っていいのではないか。
 そこでかりに問題の第一一章第一五節で、第七の天使が七番目のラッパを吹き鳴らした所を起点として、そこから数えて四二番目にあたる所を調べてみることにしよう。


 さあ、悦ちゃんも、一緒に数えてごらん。まず第一に、第二章の残りの部分は、第一五、一六、一七、一八、一九の五節。だが、次の第一二章は全飾が一八節だから、それを加えると、二三節。それからもう一つ先の第一三章も、これまた全部で一八節だから、それも加えると、合計四一節。
 とすると、その次の第一四章のはじまりが、問題の、四二節目ということになるわけだが、結論から先にいうと、それから先の文章は、いわゆる埋め草であるらしく、いくらさがしてみても、そこでは鍵言葉らしいものが発見されない。

――となると、一ばん怪しいのはその一つ手前の、第一三章一八節ということになる。
 正確に言うなら、そこは目標から一節ずれているが、元来ギリシャ語で書かれた原文をラテン語に訳し、それを後世の人が章や節に区切って、番号をつけたのだから、一節ぐらいのずれは、むしろあるのが当然かもしれない。では、その四一節目に当る所にはどんなことが書かれてあるのだろうか?

 

 ここに智恵が必要である。思慮ある者は獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすもので ある。そして、その数字は六六六である。
 

 なんと、ここに、ヨハネの黙示録を解説する人たちが、もっとも苦心惨憺する『六六六』という数字の謎が出てくるのだ。では、この六六六という数字は、何を意味するのだろうか?

     『獣の数字は人の数字』


「ある人の調査によると、このヨハネの黙示録が世に現われたばかりの、紀元二世紀から、すでにこの六六六の謎に挑戦した人があった――という記録が残っているそうだ。
 そういえば、過去に非常に多くのユダヤ人が、ヘブライ文字を数字に置きかえて、旧約聖書の暗号解読に専念したことは、前にも話したが、それと同じように、キリスト教徒もまた、二千年の長期にわたって、驚くほど数多くの人びとが、この六六六という数字を、ギリシャ文字やラテン文字やへブライ文字に置きかえて、そこから、何等かの意味をひき出そうと苦心してきたのだ。

 その結果、六六六とは、ローマ法王のことだとか、いやルーテルだとか、モルモン教の教祖だとか、ナポレオンだとか、それぞれ日ごろ自分が嫌っている人物の名にこじつける解釈を、それも、普通、世間から学者とよばれるような人が、今日でもなお、大まじめになって続けている例が、少くない始末だ。

だがその中でもことに傑作なのは、二○世紀の第二次大戦の最中に発表された『黙示録で予言された六六六という名の悪魔の手先は、ヒトラー(Hitler)だ』という解釈だ。これは、かりにローマ字のAを一○○として、次のBを一○一、Cを一○二というふうに数えると、Hは一○七、Iは一○八、Tは一一九、Lは一一一、Eは一○四、そしてRは一一七だから、それを合計すると、なるほど見事に六六六になるわけだ。
 ここまでくると、大ていの人が、そのこじつけ方は少々おかしいと思うだろうが、それとほとんど同じようなやり方で計算した結果によって、『六六六とは、ローマ皇帝ネロを指す』とする説は、今日でも、かなり多くの人びとから認められているばかりでなく、そこから、『このヨハネの黙示録は、ネロ時代以後に執筆されたものであって、それが書かれた目的は、主として、その後に起こったキリスト教の迫害を予言し、信者たちをはげますことにあったのだ』
――という解釈が生まれてくるというわわけだ。
 だが、おじいちゃんには、これまでの黙示録の解説者たちが、もっぱら行なってきた六六六に対する推理の発想そのものが、どうにも納得できないのだ。


 なぜならば、この第一三章一八節の文章を、よくよく読み返してみると、ここに『その数字は人間をさすものである。そしてその数字は六六六である』と書いてあるが、それはかならずしも人間の名を指すとはかぎらず、読みようによっては、『六六六という数字は、人間の数である』という意味にもとれるわけだ。

……さあ悦ちゃん、もし、かりに、この六六六という数字が、人間の数をさしているのだとしたら、ポオが書いたデュパンや、名探偵シャーロック・ホームズ、それに、きみの大好きなマープルおばあちゃんだったら、これから先を、どういう方法で推理するだろうね?」
 おじいちゃんは、シャーロック・ホームズが、相棒のワトソンに対して、自分の頭脳の力をひけらかす時のような、得意満面というポーズで、悦ちゃんの顔をみつめた。
「え━えっと……そうだナー……、あのう、人間の数っていうんなら、もしかしたら、民数記という名前の本……?」悦ちゃんは、もうだいぶん馴れてきた手つきで、早くも民数記のぺージを繰り出して読んでいる。
「ワァ、何万何千何百……っていう数がいっぱい出てますね、ルベンの部……シメオンの部族……ああこれ、十二部族の人数かな?……この数字、ずっとさがしていくと、もしかしたら……」
「そうなんだ。六六六の謎を解くためには、やたらに文字に数字をあてはめて、ヒトラーだの、ネロだのと、行きあたりばったりの答を試す前に、まず第一に、旧約聖書の中に、六六六人という人間の数が、出てくるか、こないか、その調査からはじめなくちゃあいけないんだよ」
「でも、大変でしょう? こんな厚い本を調べるなんて……」
「冗談いっちゃあいけない。クリスチャンである以上、聖書なんていうものは、生涯に何十ぺんでも、隅から隅まで、徹底的に読み返すのが、当り前なんだ。そうすれば、なにもわざわざ六六六という数字をさがさなくても、日頃、その問題が頭にある人なら、『オヤ?』と、すぐ気づくはずなんだ」

 急におじいちゃんが、叱りつけるような調子で声をはりあげたので、私たちは思わず首をすくめて顔を見合わせた。

 悦ちゃんは、恐縮しながらも好奇心にみちた目を輝かせて、
「じゃあ、六六六という人間の数がどこかに書いてあるんですね? それはどこ……」と言いかけて、
「あ、自分で探さないといけないんでしょう……」先廻りしてつぶやきながら、あてもないのに聖書をあちこちめくってみている。
「もちろんだ……と、まあ、本当なら言いたいところだが、悦ちゃんが見つけるまで待っていたら、何日かかるかわからない。それじゃあこっちが迷惑千万だから、不本意ながら教えてあげよう。それはね、エズラ記第二章一三節だ。ホラ、『アドニカムの子孫は六六六人』とあるだろう」

「……ほんとだ!」

「これは例のユダヤ民族のバビロニア捕囚が終った後に、祖国に帰った人びとの人数が書いてあるところだ。だが、ついでに言っておくが、旧約聖書の中には、ここ以外にも、六六六という数字が出てくる所はある。しかし、人間の数が六六六というのは、ここだけなんだ」
「この、『アドニカムの子孫は六六六人』というのはどういう意味なんですか?」
「まあ、待ちなさい……それがどういう意味かということを考える前に、果たしてこれが、本当に鍵言葉と関係があるのか、それとも単なる偶然にすぎないのか? ということを、一応、考えなおして
みる必要がある。……ところがね、この、六六六という数字の背後には、どうも、偶然の一致とは言いきれないような、まことに奇妙な問題があるんだよ。

 

 

      エズラ記の謎


「というのはね、まず、このエズラ記の次にある、ネヘミヤ記の、第七章七節の終りのところを見てごらん。ホラ、『そのイスラエルの民の人数は、次の通りである』という書き出しのところ。さっきのエズラ記の第二章と同じように、バビロニアから引き揚げてきた人びとの人数が、細かに書いてあるだろう。そして、その総計は、どちらも四二、三六○人(エズラ記二-64、ネヘミヤ記七-66)と、一致しているが、ネヘミヤ記の場合には、『アドニカムの子孫は、六六七人』(七-18)となっている。
 そればかりでなく、この両方に書かれてある、引き揚げ者の数字をよく調べてみると、アドニカムの子孫だけでなく、三番目のアラの子孫は、エズラ記では七七五人なのに、ネヘミヤ記では六五二人、その次の、パハテ、モアブの子孫、すなわち、エシュアとヨアブの子孫は、エズラ記では二、八一二
人なのに、ネヘミヤ記では二、八一八人となっているだろう。そういうふうに、あちらこちらで少しずつ変わっているんだ。いったい、これはどういうことだろう。

 多くの学者たちの説では、そもそもこのエズラ記とネヘミャ記は、その前の歴代志といっしょに、同じ人物が書いたものらしいといわれているのに、なんのために、引き揚げ者の人数を、ながながと、そっくり二回もくり返して載せているのだろうか?  しかも、その総計は同じ数字になっているのに、部分的に、あちらこちらで、ほんの少しずつ数字がちがっているのは、なぜだろうか。 


 じつは、もっと不思議なことに、今日、旧約聖書の正典として認められているエズラ記とネヘミヤ記のほかに、外典として扱われている『第一エズラ記』とよばれる書物があるんだが、聖書究家の説では、この第一エズラ記は、元来、今側のエズラ記とネヘミヤ記の前篇として書かれたものだという。
 ところが、この第一エズラ記にもまた、問題の引き揚げ者の人数の話が、そっくりくり返されているのだ。そして、この第一エズラ記の場合、その総計と、アドニカムの子孫の数は、ネヘミヤ記と同じだが、その他の数字は、ネヘミヤ記とも、エズラ記とも、一致しないものが多い。しかも、さらに奇々怪々なのは、この三冊の書物を通じて三度出てくる引き揚げ者の総数は、いずれも四二、三六○人なのだが、それぞれの内訳を加算してみると、どれも、四万などとい2郵字にはならないのだ。いったい、これは、どういうわけだろう?
 かりに、その原因は、写本をした人が写し違えたものだと考えようとしても、それにしては、あまりにも違う箇所が多すぎる。そのうえ、いくら杜撰(ずさん)な校正のしかたをしたとしても、これほど数多い間違いが発見できないということは、あまりにも不自然だ。
――となると、この三冊の書物の共通の著者(あるいは校訂者)は、こと引き揚げ者の人数に関しては、わざと意識して、でたらめな数字をならべたてた――としか、思えないわけだ。
 では、何のために、そのような奇妙な策を弄する必要があったのだろうか?


 いま、面倒なせんさくは一切ぬきにして、一つの仮説を立ててみることにしよう。……最初は、その総計が四二、三六○人になる、正確な内訳の費料が存在した。その場合『アドニカムの子孫の数』は、六六七人というのが正しくて、六六六人ではなかった。
 ところが、誰かが、旧約聖書の暗号解読用の鍵言葉をここにかくすために、わざわざ、エズラ記にある『アドニカムの子孫の数』を六六六人に直した。ただし、わざと読者の注意をひくように、ネヘミヤ記の六六七人は、もとのままにしておくと同時に、それぞれの本のあちらこちらで、アドニカムの子孫以外の人数を、少しずつ喰いちがわせた。したがって、その総計は四二、三六○人ではなくなってしまった。そして一方では、それから以後の写本をする人たちにむかって『これらの書物は、すべて神聖な霊感によって書かれたものであるから、一点一画なりとも、勝手に改めてはならない』という、厳重な指示を与えた
――としたら、どうだろう?』
 おじいちゃんは、『これだけくわしく説明したら、よもやわからないヤツはいまい』とでも言いたげだが、私は、それどころではなかった。悦ちゃんは、わかって聞いているのだろうか。……かりに、誰かが、暗号解読用の鍵言葉を、どこかにかくそうとしたとして、なぜ、そのかくし場所として、エズラ記をえらび、また、その中の『アドニカムの子孫』という部分が使われたのか? 六六七人という数を、六六六人と直したのは、なぜなのか? これが、もし、おじいちゃんがたてた仮説のとおり、『アドニカムの子孫の数は六六六人』というのが、暗号解読の鍵言葉だったとしても、それはいったい、なにを意味するのだろう?……私は、勝手に、そんなことを漠然と考えていた。
 結局、悦ちゃんも私も、一向、相鎚を打たないので、やや気抜けしたおじいちゃんは、しばらく黙り込んでいたが、やがて、遠慮がちに話をつづける。
「……と言っただけでは、納得がいかないかもしれないが、万万一、暗号解読用の鍵言葉が、ここにかくされているとしたら、この『アドニカムの子孫は六六六人』という言葉には、どんな秘密がかくされているのか? それを一応、推理してみよう。

 

     『アドニカムを否定する』とは
 

「おじいちゃんはさっき、この六六六という数字の謎解きは、すでに紀元二世紀ごろから始まっていた、と言ったが、そのころの人が考えたいくつかの解釈の中に、見逃がすことができない重要なものが、一つあるのだ。
 それは、その当時の人びとが、日常使っていたギリシャ文字による数字の表現方法というのは、Aは一、Rは一○○、Nは五○、Oは七○、Uは四○○、Mは四○、Eは五だから、この七文字による、ARNOUME(アルヌウメ) という言葉は、合計が六六六になるというものなのだが、この、ARNOUME(アルヌウメ)というのは、『否定する』とか『拒む』『否認する』という意味の、ギリシャ語ARNOUME(アルヌウメ) の、変形ではないかという解釈なのだ(ローマ帝政時代の共通ギリシャ語(コイネー)では、AIとEの発音は同じだった)。
ただし、その当時の人は、ここまで、謎を解いてはみたものの、これを黙示録の『その数字は六六六である』という文句にあてはめてみても、何のことだか、さっぱりわからないので、この方法では暗号解読にはならないといって、断念してしまったらしい。
 だが、もし、この『否定する』『拒む』『否認する』という言葉を、『アドニカムの子孫』と結びつけたらどうなるだろうか? このアドニカムという言葉は、へブライ語の、アドナイ(主)から変化したもので、正確にいえば『主はよみがえる』とか『主が来る』とか『主が立ちあがる』というような意味になる。だが、この場合のアドニカムは『神をアドナイ(主)とよぶこと』だと、おじいちゃんは解釈するのだ。
 言いかえれば『アドニカムは六六六人』ということは、『神を、アドナイ(主)とよぶことを否定す
る』
――もっと端的に言えば『アドナイ(主)を否定する、認めない』という意味にもとれるわけだ。

 ただし、エズラ記の文章は、『アドニカムは六六六』ではなくて、『アドニカムの子孫は六六六人』なのだから、その『子孫』というのをどう解釈するか?

――きみたちは聞きたいだろうが、その説明を今はじめると、非常に長くなるから、その話は、あとで、改めてすることにする。とにかく一応、ここでは、この『アドナイ(主)を否定する』が、略号解読用の鍵言葉だと、仮定したら、どうなるか、ということを考えてみよう。

 さあ、悦ちゃん、ここで、今までのおじいちゃんの話を、全部、思い出してもらいたいんだ。……まず第一に、もし、旧約聖書の暗号文が、サイファー式だとしたら、その基本となる暗号の組み立て方は、どんなふうになっているかな?」
「文章を、終りの方から、はじめの方へ、逆さまに読むかもしれない……」
「そうだ。だが、文章の全部を逆に読むのではなかったね?」
「途中に、意味のない埋め草が入っているから、そこは飛ばして読みます」
「では、何が埋め草で、何が本文かを見分けるには?」
「その見分け方を、教えてくれるのが、鍵言葉なんでしょう?」
「その鍵言葉が、もし『アドナイ(主)を否定する』だとしたら、どうなるね?」
「……う-ん……」
 悦ちゃんは、両手の指をコメカミにあててうつむいて考え込む。私はもちろん五里霧中だ。おじいちゃんは、じれったそうに、私たちの顔を見くらべていたが、「じゃあ、話を変えて、例の、聖書批判学というものが生まれてきた、いきさつを考えてみよう。そもそも、『モーセの五書を書いた人は誰か?』という疑問は、なにから始まったんだつけ?」
「もとの覚え書……あの本を書いた、ジャンなんとかいう、お医者さんのおじいさんが……」
「そのジャン・アストリックが、なぜ、『モーセの五書には、二つ以上の、もとの覚え書があった』と気がついたのかな?」
「創世記の中に、同じ話が、二回以上くり返して書いてあるところが、たくさんあるから……」
「その二種類の、同じ話の中に出てくる神のことを、へブライ語では、どう区別していた?」
「エロヒム(神)と、ヤハウェ」
「だが、そのヤハウェ(YHWH)は、絶対に口に出して発音しない代りに、なんと読むことになっていたっけ?」
「それは……え-っと、アドナイ(主)です」
「では、もし、旧約聖書の暗号解読用の鍵言葉が、『アドナイを否定する』あるいは『アドナイを認め
ない』だったら?……」

「あッそうか!」
 悦ちゃんは、両手でパタンと、テーブルを叩くと同時に、はじかれたような勢いで、立ち上がってしまった。
「どうだ、やっと気がついたか」おじいちゃんは、満足そうに、ほほえむ。
「そうなんだよ。『アドナイを否定する』とか『アドナイを認めない』ということは、ヘブライ語の聖書で、ユダヤの神のことを、ヤハウェ(YHWH)と書いてあるところ、つまり、英語の聖書なら、My Lord 日本語なら『わが主(主)』と書いてあるところを、黙殺する。言いかえれば、そういう文章のところは、すべて埋め草だと思って、飛ばせ、ということではないかと考えるんだ。
 となると、そのあとに残る部分とは何か?  当然、それは、ユダヤの神をヤハウェ(YHWH)とは書かずに、エロヒムと書いてある部分、英語ではGod

日本語では『神』の部分、そこだけを拾い出して、逆に読んで行け、ということになるんだよ」
 私は、なにか周囲の現実が、今こうしているままで、われわれの知らない姿に変わってでもゆきそうな、やや不気味なものを感じていると、悦ちゃんが、身ぶるいするように坐り直した。
 そのとたん、ダン! と音がして、南側の入口の扉がいっぱいに開かれ、誰かがドカドカと足早や
に床を鳴らして入ってきた。

聖書批判
ユダヤ人にとっての
獣の数字は
エズラ
アドニカム
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42番目のところ
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