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第一部見ても見ず

第一部 見ても見ず 聞いても聞かず


   第一章 永遠の命をもとめて
 

     『されど』のひとこと

「……あれは、このおじいちゃんが、まだ二十歳代のことだから、どのくらい昔になるか……もっぱら戯曲を書いたり演出するのが仕事だったころだ」

 おじいちゃんは、木箱の前の、元の席にもどると、自分自身に話しかけでもするかのように、しずかな調子で話しはじめた。

「とにかく、ず-っと昔の話だけれどね、あるクリスチャンのグループから、キリストの受難劇を書いてくれと、たのまれた――といっても、ただの信者の集りじゃない。当時の日本の政治や経済や文化のありかたを『このままには、しておけない、根本から改めなければ』と思い込んだ青年たちのグループだった。彼らは、昼も夜も、何回となく集まっては相談した末に、自分たちの理想を、キリストの演劇にかこつけて上演することによって、世論をめざめさせようと計画した。――つまり、このおじいちゃんがたのまれたのは、そういう目的をもった、キリスト受難劇だったんだ。

 だから、イエスだの、ペテロだの、ユダだのという名前の人物が登場するにしても、本当は現代の社会批判がねらいなのだから、二千年前の歴史や地理や風俗にこだわる必要もなかった。そこで、ごく気軽にひきうけて、その受難劇の構想を練りはじめたわけだ。……ところが、ほんの参考程度のつもりで読みかえした新約聖書の中に、今まで自分が気づかなかった大変な状況が書いてあることを発見したんだ。

 それはなにかというと、あのが橄欖(かんらん)山の夜

場面だ。イエスを十字架にかけて殺そうとする人たちが、
間もなく逮捕にやってくる。イエスは、そのことをはっきり

意識しながら、必死になって神の助けをもとめる……福音書

には、その時の緊迫した情況が実にいきいきと描いてある。

……『イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。

そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた』(ルカ福音書二二-44)
というふうにね。
――おじいちゃんが、ハッとしたのはここなんだよ。
 

 そのころはもう、太平洋戦争のきっかけになった満洲事変がすでに始まっていた。それで若者は誰でも、いつなんどき、軍隊によび出されるかわからない状態だった。だから、もし自分が戦場にひっぱり出されてもう助かりようがない激戦の中に立たされたとしたら、どうなるだろうか。おそらく、福音書にあるとおり、恐れおののき、苦しみもだえて、汗が血のようにしたたり落ちるだろう。その点は、自分もイエスもまったく同じだ。自分にも、橄欖山の夜のイエスの気持ちはよくよくわかる。
 だが問題は、その場でイエスが言った言葉なのだ。おじいちゃんがそのころ読んだ聖書は文語体で翻訳してあったから、『わが父よ、この苦き杯をわれより取りのぞきたまえ。されど、み旨ならば、そのままになしたまえ』……おじいちゃんは、この言葉に愕然とした。中でも、『されどみ旨ならば、そのままになしたまえ』の、『されど』のひとことに感動したんだ。
 もっとも、マタイ福音書とマルコ福音書には、イエスが、この祈りの言葉の全部を、三度くり返したと書いてある。だが、それはおかしい。『されど』からあとの言葉がスラスラ出てくるくらいなら、誰も血がしたたるような汗はかかないよ。……あるいは逆に、もし心の中で恐れおののきながら、口さきで『されどみ旨ならば……』と言ったとしたら、その祈りはうそになる。
 だから、本当にキリストが三度くり返して祈ったとしても、『されど』といったのは、一番あとの時だけだったにちがいない。それも、三度目の『この苦き杯をわれより取りのぞきたまえ』と、『されど』との間には、大変な長い時間が、はさまれているはずだ。
 つまり、今の今まで、ただひたすら『助けてください』と、もだえ苦しんでいたイエスが、ある一瞬を境として、『されど』といえるようになったその瞬間に、いったい何が起こったのか? その時のイエスの心と体に、どんな大きな変化が起こったのか? 
ここが一ばん重大な疑問だったのだ。


 橄欖山の夜や、ゴルゴタの丘の上の十字架をぬきにすれば、山の上での説教や、病人や貧しい人に親切をつくすイエスを描くことはやさしい。――橄欖山の夜にしても、『この苦き杯をわれより取りのぞきたまえ』と祈って血がしたたるような汗を流したイエスの心境は、充分に想像できる。だが、その死の恐怖のどん底から、『されど……』といって天を見上げた、あの瞬間の情景が、どうしても当時のおじいちゃんには、実感できなかったのだ。
 それなのに、そういう自分が、他人にむかって『君たちもキリストにならって十字架の道を歩みなさい』と、無責任に煽動するような戯曲を書いたり、その戯曲を平気で演出する気には、当時のおじいちゃんは、どうしてもなれなかった。
 そこで、例のキリスト受難劇を書いてくれと注文した、クリスチャンのグループに、『あと二○年待ってくれ』と、断った。といっても、二○年たてば、橄欖

山の夜のキリストと同じ心境になれるという自信があったわけではない。今からどんなに努力しても、そこまで到達するには、少くとも二○年は、かかるにちがいないと思ったからだ。
 そして、その日以来、どんな恐ろしい破局を前にしても、平然として『み旨ならば、そのままになしたまえ』と言い切れるようになるには、どうしたらいいか?  しかも、自分ひとりでなく、人間だれでも努力さえすれば、そういう心境に到達できる、具体的な修行の方法にめぐりあえないものかと、ただただ、なにをするにも、そのことに結びつけてしか考えられない日が、始まったわけだ。
 そこで、まず第一にとりかかったのが、聖書、それも新約聖書だけでなく、旧約聖書の第一ページから、もう一度、徹底的に調べなおしてみるということだった。


 

     天国の奥義とは


 「そのころ引いてみた、ある事典に、聖書とは『神の意志表示の記録であり同時にまた、人間の宗教生活基準を示した本でもある』と書いてあった。――ということは二千年来、世界のキリスト教徒にとって、これ以上立派な内容の書物はないわけだ。そして、そのことを、全人類に知らせるのが自分たちの使命だと、クリスチャンは信じている。
 だが、まず旧約聖書から、ていねいに読んでいくと、『どうしてこの本が、それほどありがたいのか?』と、首をひねってしまうことが、あまりにも多すぎることに気がついたのだ。そもそも旧約聖書に出てくる神というのが、大変な代物(しろもの)だ。たとえば、『主はねたみ、かつあだを報いる神……また憤る者』(ナホム書一-2)なんていう文句がいくらでも出てくるし、それどころか申命記では、神がユダヤ人にむかって『これからヨルダン川を渡ってカナンの地に攻め込んだら、占領した町々では、息のある者を一人も生かしておいてはならない』と命令している。
 神様でさえこの調子なのだから人間の話となると、残酷きわまる事件や、不道徳な人物が、めったやたらに飛びだしてくる。……いったい、なんの必要があって、こんなひどい内容の本を、新約聖書と同格にして、いわゆる正典(カノン)とよぶのだろうか?
 正典というよび名は、教会の最高指導者たちが、充分に検討をかさねた上で、『これは是非とも信者に読ませるべきだ』ときめたものであって、ただ参考にする程度のものなら、外典とよんで、いわゆる聖書の中には加えないことになっている。だのに、キリスト教会がこの旧約を、聖書の正典と認めて、その内容のすべてを、『神の啓示』『神の意志表示の記録』であると主張するのはなぜなのだろうか? 
――ここに 大きな疑問が存在するわけだ。
 だが、不可解なのは旧約聖書ばかりではない。新約聖書の中にも、腑におちない問題はいくらでもある。


 ちょっと、そこの聖書を一冊、いや、二、三冊とってくれたまえ。昔ふうの文語体訳のものより、どれでもいいから、わかりやすいのがいいな。ホラ、悦ちゃん、おじいちゃんとこには、ずいぶんたくさん、いろんな聖書があるだろう。これ、みんな屑の中から拾い出してきたんだ。世界じゅうで、聖書ほど、毎年多く出版されて、これほどひろく読まれてる本はないというが、蟻の街のような屑拾
いの立場から見るとね、聖書ほど、ろくろく読まれずに、むぞうさに捨てられてしまう本もないという気がするな。……しかし、そんなことはどうでもいい……ええと……そうそう、新約聖書の話だったね。ヨハネによる福音書の……第五章の……三九節……ここだ、ここを読んでみたまえ。


   あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、

   この聖書は、わたしについて、あかしをするものである。しかも、

   あなたがたは、命を得るために、わたしのもとにこようともしない。

 

……もちろんここで言っている聖書とは、旧約のことだ。だから、もし、イエスが本当にこう言ったとすれば(いや、万一、ヨハネによる福音書の著者が、イエスの名を借りて書いた言葉だとしても)これによって、すでにその当時の人びとが、熱心に旧約聖書を読み漁っていたことがわかる。それに対して、イエスが明確な回答を持っていたということを、この福音書の著者は強調しているのだ。
 その証拠に、この、ヨハネによる福音書には、神の意志とは『永遠の命をあたえることだ』(六-40)とか、『私の言葉を信ずる者は、永遠の命が得られる』(五-24)とか、『私の言葉を守る者は、いつまでも死なない』(八-51)とか、そのほか、似たような意味の言葉が、いくらでも出てくる。(四-14、六-47,68
、一七-3等々)……
 じゃあ、その永遠の命を得るための、イエスの教えとは、いったい何だろう?

 

 さあ今度は、ルカによる福音書の一八章一八節をあけてごらん。……ある人がイエスに『どうしたら永遠の命が得られますか』とたずねているだろう。この時のイエスの答えが、あの有名な『富める者の天国に入るは、ラクダが針の穴をくぐるより難し』なのだ。そして、その直後にイエスは、ペテロに『だれでも、神の国のために、家や、親兄弟や、子を捨てた者は、来たるべき世で永遠の命が得
られる』と、説明している。
 だが、これで疑問がすっかり解けたと思える人は、よほど頭のいい人か、よっぽどそそっかしい人であって、おじいちゃんのような人間には、これだけでは、とても納得できない。この部分を、きみも、あとでよくよく読んで見たまえ。

――その時 イエスが、なんとなく話題をずらして、わざと、わかりにくい答え方をしていることに、気がつくはずだ。
 しかし、こちらも粘り強く、イエスの言葉の端はしから、彼の本心がどこにあるのか、を追跡することにしよう。
 イエスはここで、『永遠の命を得る』ということと、『天国、あるいは神の国へ行く』ことを同じ意味で語っているようだ。
――では、天国とは何か? 神の国とは何か? ……その問題については マタイ福音書の一三章と、マルコ福音書の四章に、イエスが神の国についてのいろいろのたとえ話を説いているところがある。だが例によってこれもさっぱり要領をえない。
 最後には弟子たちもしびれをきらせて『どうして、もっと具体的に答えてくださらないんですか?』とたずねる。するとイエスは、『この天国の奥義は、一般大衆に教えるわけにはゆかないのだ。あなたがたには教えてあるが……』という。
 ではなぜ、イエスは天国の奥義を一般の大衆に教えるわけにいかなかったのだろうか?

 

 

     イザヤ書の謎を解く者
 

「そこで、次にマタイによる福音書の一三章一一節以下を読んでみよう。


    『あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、

     彼らには許されていない。……だから彼らには誉えで語るの

     である。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また

     悟らないからである。こうしてイザヤの言った予言が、彼ら

     の上に成就したのである……』
 

――ここに出てくる『見ても見ず、聞いても聞かず…』というイザヤの予言なるものはイザヤ書の第六章九節にあるのだが、イザヤ書には、その他にも、


     わたしは、あかしを一つにまとめ、教えをわが弟子たちのうち

     に封じておこう(八-16)

 

とか、

     それゆえ、このすべての幻は、あなたがたには封じた書物の言

     葉のようになり……(二九-11)


というような、謎めいた文句に、あちこちでぶつつかるんだ。
 となると、どうやら、イエスの諮る天国の奥義鞍るものは、旧約聖書
―― ことにイザヤ書の中に封じ込められている謎と深いかかわりがあるらしいことが、おぼろげながら、想像されてくる。
 そこで、もう一度、『あなたがたは聖書の中に永遠の命があると思ってしらべているが……』とイエスが語った話にもどるが、このエピソードによって、当時のユダヤ人の中には
――イエスが生まれるずっと以前から、『旧約聖書の中に、なにか秘密の教えがかくされているらしい、ひょっとしたら、預言者イザヤは、旧約聖書の中から、何か重要な暗号文書を発見して、その解き方の鍵を、聖書のどこかに、秘密に書き残しているんではあるまいか?』と考えて、その謎解きに熱中していた人が、多くいたことが想像できるのだ。
 そのうえイエスが生まれたころには、『イザヤの謎が解けた人こそ救世主(メシヤ)だ』という考え方が、ユダヤじゅうにひろがっていたらしい。そこで福音書の著者たちは、イエスの生涯が、いかにイザヤ書の中に出てくる言葉と一致しているかということを強調することになったのではないだろうか?
 たとえば、聖母マリアの話『見よ、おとめがみごもって、男の子を生む』(イザヤ七-14)や、洗者ヨハネの話『呼ばわる者の声がする。荒野に主の道を備え……』(四○-3)もそうだし、マタイ福音書では、イエスが、洗者ヨハネが捕えられた後に、ガリラヤ地方へ退いたのも、『これは預言者イザヤによって言われた言葉が成就するためである』(四-14)と言っている。つまり『苦しみに在った地にも闇がなくなる……ヨルダンの向うの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる』(九-1)……というようにだ。

 それからルカ福音書では、イエスが安息日にナザレの会堂に入って行って、聖書を朗読しようとしたら、偶然ひらかれたのはイザヤ書の一部(イザヤ四二-1〜9)だったが、イエスはそれを見て『ここには、盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出す……とあるが、それは今こそ成就するのだ』と言った(ルカ四-16~21)と書いてある。
 このほかにも、イエスが言ったことや行なったことが、イザヤの予言と一致するという説明は、数えきれないほど出てくる。

 

 したがって、これらの福音書の記事を読んでいるうちに、なんとなく、イザヤが封印した謎が、読者にもすべて解明できたような錯覚をおこしがちだが、実際は、『イエスが、その謎を解明して、直弟子だけに伝えた』と言っているだけで、問題の、永遠の命を得るためにはどうすればいいのかという、具体的な方法については、(福音書には)なに一つ書かれていないのだ。
 となると、おじいちゃんの聖書研究もまた、ただ表面的に読み漁るだけでなく、今までとは、まったくちがう角度から、つまり、『もしかしたら、聖書は暗号文書なのではあるまいか?』という立場から、一応調べなおしてみる必要が起こってきたのだ。そうなると、どうしても問題になるのは……」
 そこで私は、たまりかねて言葉をはさんだ。
「おじいちゃん、もう、そのへんで、ひと休みしましょう。悦ちゃんは、昨夜、夜行でろくに寝てないんですから……少しは相手の迷惑も考えなくちゃあ」
 おじいちゃんは、私の激しい語気に驚いて、一瞬言葉をと切らせた。ところが、悦ちゃんが、今までとは打って変わった、活きいきとした調子で言うのである。
「大丈夫です。私、疲れてなんかいません。それに、おじいちゃんのお話、まるで推理小説みたいで……私、もっともっと聞きたいです」
「ほう! ミッションスクールの生徒のくせに、推理小説も読むのかね? きみは」
「みんな読んでますよ。マンガほどじゃないけど。私は、シャーロック・ホームズ狂いの従兄がいて、ママに内証でいろいろ貸してくれるんです。それから、アガサ・クリスティのマープルおばあちゃんなんかも、大てい読みました」
「そいつはたのもしい。じゃあエドガー・アラン・ポオは?」
「怪人二十面相、マンガでみました」
「それやあ、日本の江戸川乱歩だろう……」
「外国にも、江戸川乱歩っているんですか?」
「エドガー・アラン・ポオ……知らないかな、黄金虫なんてのがあるんだが」
「黄金虫? それ、暗号で、海賊の宝物を見つけるのとちがいますか?」
「そうそう、それだ……そのポオはね、推理小説の元祖でもあるし、暗号の研究家としても、当時としては、その道の最高権威の一人だったんだ。……だから、彼はあの黄金虫の中でも言ってるだろう、
『人間の頭で作った暗号文なら、どんなに難しいものでも、解けないはずがない』ってね……だから、おじいちゃんも考えたんだよ。『かりに旧約聖書の暗号が、どんなに込み入ったものだとしても、やっぱりどこかの人間が工夫して作ったものにちがいないんだから、おじいちゃんに解けないはずがない』とね」

「それで? ……それで聖書の暗号、解けたんですか?」
 悦ちゃんは、日を輝かせて身をのり出す。私は、あきらめて、口をつぐんだ。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

   第二章 暗号解読法ABC

     史上最大の推理小説


「ところで、そのエドガー・アラン・ポオだがね……」
 悦ちゃんが推理小説のファンだと聞いて、すっかり気をよくしたおじいちゃんは、いよいよ調子づいて早口になる。
「彼が、アメリカ東部フィラデルフィアの新聞に、例の黄金虫の原稿を送って、賞金百ドルを獲得したのは一八四三年のことだ。今からざっと百年ほど前かな?
――とにかく今日でもなお推理小説の評論家には、あの作品を絶讃している人が多い。『あの数字と記号が羅列してある得体の知れない暗号文を、何の手がかりもなしに解読するには、非凡な観察力や、旺盛な想像力、そして偉大な集中力と忍耐が必要だ。いや、それだけでなく、略号解読に関する高度の知識と、特殊な才能がなければ手も足も出るものではない。だから、エドガー・アラン・ポオは、まれに見る明晰な頭脳の持ち主であり、黄金虫は、謎解き小説の最高峰に位するものだ……』とね。
 しかし、おじいちゃんが、もし、黄金虫を、純粋に『暗号解読』という面からだけで採点するとしたら、残念ながら、あまり高く評価するわけにはいかないな。……だって、そうじゃないかね? あの難しい暗号文を何の手がかりもなしに解読したというが、あれはポオが、自分で作ったものを、自分で解いただけの話で、それだったら、あの百倍も混み入った暗号文だって、スラスラ読めるのが当り前の話だ。

 まあ、その問題は、小説なんだから仕方がないとしても、そもそも海賊キッドがどういうわけで、あんな莫大な宝を、丘の上にかくす必要があったのか、その理由が薄弱だ。……次に、自分があとで掘り出すためには、あんな混み入った暗号文書を、作る必要があったろうかということだ。あれでは、はじめから、縁もゆかりもない第三者に宝をさがし出させようとして、わざわざ暗号文を作ったみたいなものだ。

 しかし、百歩ゆずって、海賊キッドの不合理はせめないとして、今度は、あの暗号を解読して宝を掘りあてた、小説の主人公の側について考えてみよう。……彼が、あの暗号文を砂浜でひろったのは、まったく偶然だし、それを、のちに焼き捨てなかったのも偶然だ。そればかりでなく、もし、あれが他人の手に渡っていたら、おそらく誰も暗号とは気づかずにしまったことだろう。
 推理小説の愛好者たちは『そういう偶然が重なっているからこそ、ストーリーが面白いのだ』と言うかもしれない。なにしろ、ポオ以後の暗号解読小説にも、この種のつくり話が非常に多いのだから。しかし、厳密な意味での謎解き物語としては、これでは、構成が幼稚すぎるといわなければならない。
 なぜ、おじいちゃんが、しつこく、こんなことを洗い立てるかというとね、もし、旧約聖書の中に暗号がかくされているとしたら、それを書いた人は、わが愛するポオやコナン・ドイル級の人物が、束になって知恵をしぼっても、足もとにも及ばないほどの、まさに空前絶後、史上最大というべき着想能力と、超人的創造力を身につけた推理小説作家だと言いたいからなんだよ。
 まず第一に、仮りにね、おじいちゃんが推測するように、旧約聖書のどこかに、永遠の命を得る方法が、暗号文で書かれているものとしたら、そのことだけだって、世間の推理小説に登場するいわゆる名探偵たちが、凶悪犯罪者に挑戦したり、宝物のかくし場所をさがしまわるのとは、物語の構成や主題(テーマ)
が、くらべものにならないほど、深遠で、神秘的ではないか。
 それから『黄金虫』の宝はね、どっちみち最初に発見した人だけが、ひとり占めしちゃって、ほかの人にとっては、ただの夢物語となってしまうわけだが、聖書の中にかくされてある『永遠の命を得る方法』は、その暗号を何百万、何千万の人が解読したとしても、その効果が薄くなるわけではなく、その謎解きに成功した人は誰でも、イエスのいう天国に入ることがゆるされるかもしれないのだ。
 しかもその暗号文は、海賦キッドがたった一枚の羊皮紙に書きつけたものを、偶然、誰かが拾って解読するというようなつくり話とはちがって、有史以来もっとも多く出版され、もっとも多く読まれているという聖書の中に堂々とかくされているというわけだ。
 これとくらべたら、コナン・ドイルにしろ、アガサ・クリスティにしろ、いわゆる推理小説なるものは、その作者のあやつる名探偵が、これまた作者がつくり上げた事件を、苦心さんたんの末に解決したかのごとく見せるわけだが、読者は初めから終りまで、名探偵の動きにつき合わされるだけで、作者の謎の解き方に干渉する機会は、まったく与えられない。……ところがね、聖書の暗号解読は、
一人ひとりの読者が名探偵となって、謎解きに自分で挑戦しなければならないのだ。
 だからこそイエスは、くり返して『天国は畑に隠してある宝のようなものである。天国は良い真珠をさがしている商人のようなものである……』(マタイ一三-44~47)と言って謎をかけているのではなかろうか……」
 おじいちゃんの雄弁に圧倒されて、まばたきもせずに聞いていた悦ちゃんが、思わずつり込まれるように質問した。
「だけど、旧約聖書、こんなにも厚いのにどこから暗号とけばいいんですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

     換字(コード)式と転字(サイファー)式


「もちろん、ただやみくもに読んだって見当がつくはずのものじゃないよ。そこでね、おじいちゃんは、暗号の歴史から、種類、そして解読法の研究のために、エジプト、バビロニアあたりの古代文字から、太平洋戦争中の米軍の暗号に至るまで、手当り次第に読み漁って調べたんだ……」
 悦ちゃんは今まで、聖書を読むための暗号の説明と思っていた話が、大変な、暗号学かなんかの方に発展してしまいそうな気配に雑然としている。だが、なにしろ桃楼じいさんという人は、「旧約の勉強に行きたいから」と、ある司教さまに現地の修道院への紹介状を書いてもらったとき、「現地へ行くのにはヘブライ語やギリシャ語だけでなく、アラビヤ語ができないと不便だよ」と一言いわれた
ら、すぐさま講習会に出かけ、「ハム、ザ、アリフ……」と、なぜかアラビア語のABCからはじめた人だ。暗号だってそのくらいの大風呂敷のひろげ方では、一点驚いていられない。……おじいちゃんは、悦ちゃんにまともに暗号学を講義しはじめた。

「……すると、有史以来、人間が考え出した暗号の作り方は無数にあるにしても、基本になるタイプは、たった二つしかないことがわかった。要するにそれは、コード式とサイファー式の二つ。時にはこの二種類を組み合わせる複雑なものもあるが、その場合でも、その組み合わせのふるい分けを、何回もくり返していけば、最後には必ずコード式かサイファー式かの原型が、姿を現わしてくる。
 そこで、どんな場合でも、暗号文を解読しようとするときに最初にする仕事は、問題の暗号がコード式で作ってあるのか、それともサイファー式かということを見分けるということだ。……では、そのコード式とサイファー式とは、いったいどう違うかというと……」
 と言いかけて、おじいちゃんは手近かにあった裏白の屑紙を二、三枚と、ちびた鉛筆を一本、悦ちゃんに渡しながら「これからさきは、耳で聞いただけではわかりにくいかもしれないから、自分で紙に書きながら試してごらん。やってみれば、案外やさしいことなんだから」と、つけ加えた。そして自分は、古いポス
ターの裏を出して床の上にひろげると、四つん這いになってクレヨンでNEWTESTAMENTという文字を、大きく、はっきり書き出した。
「わかりやすいように、ごく単純な実例で話すがね」おじいちゃんはサンダルを脱いで床にあぐらをかき、紙の上の文字を指さしながら説明する。
「……ここにNEW TESTAMENT(新約聖書)という言葉があって、これを、なにかの理由から暗号で通信する必要が起こったらどうするか? 

――最初は、コード式でやってみよう。
 コード式というのは、通信文の文字を、別の文字や、数字や、記号に置きかえるやり方で、たとえばアルファベットの二六字に別の文字をあてはめる。

――それも、ごく単純な変え方をする場合、ABCDを一字ずつずらせてAをB、BをC、CをDとしたとする。するとNはO、EはF、WはXということになるから、問題の New Testament は OFXUFTUBNFOU と変わって、ちょっと見ただけでは、何のことだかさっぱりわからなくなる。それで、このやり方を、換字法とよぶ人もある。
 ところで、このコード式の暗号で通信する場合には、何の字を何に置きかえるかを、前もってはっきりきめておかないと、暗号文を受けとった方で、なんのことかさっぱり見当がつかない。したがって、この種の、『文字を取りかえる暗号通信』には、相互間の規約(コード)が、つきものだ。そこから、コード式という名称が生まれたものらしい。
 しかし、AをBとか、または数字で2とか3とかそのほか、いろいろの記号に冠きかえるのだけがコード式ではない。たとえば中世の錬金術師の秘密文書では、銅を金星、鉛を土星、鉄を火星とよんだり、ある物質を熱して気化させることを、鳥を飛び立たせる、というふうに表現して、秘伝の内容そのものを、神秘的な物語らしく見せかけている。だが、この種の暗号も、結局、何かを何かに置き
かえているのだから、コード式の一種であることに変わりないのだ。
 だから、もしも暗号文らしきものを発見した場合には、まず第一にコード式で構成されているのではないかと思ってみるのが常識だというほど、この方法は、ごく一般的に使われている。現に、戦争や外交や国際スパイの秘密通信用に使われている暗号は、ほとんどすべてがコード式だといってもいい。例の、ポオの黄金虫に出てくるものも、典型的なコード式暗号文だ。
 しかし時によると、コード式の解読法で試してみても、どうしても解けない暗号文に出会うことがある。その場合には、第二番目のサイファー式だと考えなければならない。じゃあ、そのサイファー式とは、どんな暗号の作り方だろうか?

 

 

 サイファー式というのは、通信文の文字や言葉の配列順序を変える方法で、転字法などとよぶ人もある。――では、さっきの New Testament をサイファー式の暗号にすると、どうなるだろうか?
……まず第一に、ごく単純な方法は、まったく逆にならべかえるやり方で、NEW TESTAMENT が TNEMATSETWENとなる。……しかし、この程度のものは、いったん『サイファー式ではあるまいか』と気がついたら、暗号の解読に馴れている人には、一ぺんに解かれてしまう。
 そこで今度は、少し手の込んだ工作をする。……さっきの置きかえた文字を、さらに三字ずつ区切って(TNE)(MAT)(SET)(WEN)とし、この四つの区切りの前後に、まったく意味のない文字を四つずつ挟むことにする。

KRAM(TNE)EKUL(MAT)NHOJ(SET)STCA(WEN)という具合
にだ。さて、この kramtneekulmatnhojsetstcawen  が New Testament の暗号だということを、見破れる人間があると思うかね? まず、素人には、手も足も出ないだろうな。
 ところがね、サイファー式は、ちょっとした『鍵』がありさえすれば、簡単に元の文章を拾い出せるという特徴を持っているのだ。それはどういうふうにやるのかというと、発信者と受信者の間で、あらかじめ約束をしておいて、暗号通信文の、ある一定の場所
――たとえば日付けの部分を、暗号解読用の鍵としてきめておいたとしよう。……またさっきの例を使って説明するがね、KRAMTNE……云々の場合には、暗号の鍵として、日付のところに『Xmas Eve』という言葉が書いてあったとする。……実はこの場合、発信者と受信者の間にはXmasのような四文字が書いてあったら、この暗号文の最初の四文字 KRAM は無意味なものとして消す』という約束があるのだ。そして次のEveは三字だから、暗号文の、次の三文字 tne は残して、再びその先の四文字 ekul を消す……こうして次つぎにくり返してゆくと、自然に(tne)(mat)(set)(wen)だけが残ることになる。そこで最後にそれをひっくり返して読めばNew Testament となるわけだ。
 要するに、このサイファー式というのは、文字の配列の順序をとりかえたり、文のあちらこちらに、意味のない言葉を挟んで、第三者の目をくらますのが、ねらいになっているのだが、元来のサイファーという言葉は、アラビア語でゼロの意味で、何の価値もないものや、価値のない人間もサイファーというくらいだから、サイファー式の場合にほ、暗号文の中の何が無意味な埋め草か ━━ ということを、発見することが、一ばん大切なのだ。
 だが、それにはどうしても、本文と埋め草を見分ける鍵が必要なのだが、発信者と受信者が、この種の陪号文の取り扱いになれてくると、あらかじめ鍵言葉のかくし場所をきめておかなくても、どれが鍵になる言葉か、すぐ見分けがつくようになる。だから、昔から仲のいい友だち同士が、暗号というよりは、むしろ一種の知的遊戯として、サイファー式の手紙のやりとりをしている例も少くないのだ。
……さあ、これで、コード式とサイファー式の違いは、一応わかったものとして、いよいよこれから、『もし、旧約聖書に崎号文がかくされているとしたら、それはコード式か、それともサイファー式かを、まず判断しなければならなくなるわけだが……きみは、どっちだと思うかね?」
 おじいちゃんは、いたずらっぽい目をして、悦ちゃんにきいた。

 


     ユダヤの聖書学者たち


「それはもちろん、コード式でしょう」悦ちゃんは、なんのためらいもなく、はっきり答えた。
「だって、おじいちゃんは、さっき、譬え話はコード式だって言ったでしょう。それに、イエズスさまは『天国の奥義は、譬えでしか話さない』って、自分で言っているし、その、譬え話でしか語らないといった言葉のもとっていうのが……えーと、イザヤ書……?」
「そう。よくおぼえていたね。たしかにイザヤは『わたしは、あかしを一つにまとめ、教えをわが弟子たちのうちに封じておこう』(八-16)という意味ありげな言葉を残している。そこでユダヤ人の多くが、その謎解きに熱中したらしいということを前にも話したが、二○世記になって発掘された、例の死海文審からも、イエスが生まれる以前に、死海のほとりに住んでいた人びとが、旧約聖書の裏に
かくされている秘密を発見しようとして、特にイザヤ書を熱心に研究していたらしいという事実が認められている。
 ところが、それとは対照的に、キリスト教では、イエスの死後パウロが、この難解きわまる天国の奥義を、『自分は、はっきり摑(つか)んだ』と宣言した。そして彼は、『わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である』(コリント人への第一の手紙二-7)とか『ここであなたがたに奥義を告げよう』
(同書一五-51)とか『わたしは啓示によって奥義を知らされたのである』(エペソ人への手紙三-13)などと言っている。要するにパウロは、天国の奥義とは、この世におけるキリストの再臨であり、全人類の復活であり、最後の審判であると同時に、その日のために、クリスチャン全員が、教会という一つの有機体を組織することだ
――と言ったのだ。そして それから後のキリスト教徒は『パウロの考えこそ最も正統なイエスの教えであり、それ以外の解釈を下す余地は、絶対にない』と、信ずるようになった。したがって、『天国の奥義とはなんぞ?』などということを、あらためて問いなおすクリスチャンは、いなくなった――と言ってもいいだろう。
 ところが、何百年もの間、旧約聖書の中にかくされてある天国の奥義とは何ぞやという問題を、追究しつづけて来たユダヤ人の多くは、どうしても、パウロのような天国の奥義の解釈では、納得ができなかったのだ。

 

 当然のことだが、ユダヤ教徒たちは、新約聖書は眼中においてない。したがって彼らは、キリスト教とはまったく違う独自の方法で、――まさに『人智の限りをつくして』といえるほど徹底的に旧約聖書の研究を続けてきた。
 それはなぜかというと、イエスが死んでから四十年ほど後の、紀元七○年に、ローマの軍隊によってエルサレムの神殿が完全に破壊され、それ以来ユダヤ人は、世界を放浪しなければならない悲しい運命を、二千年ちかくも負わされて来た。そして、その長い年月の間、彼らの心の支えとなったものは、ただ一つ、旧約聖書だけだった。そこでユダヤ人は、旧約聖書の隅から隅までを、こと細かに調べて、『神のほんとうの意志はなんなのか? 自分たちは、どうしたら神に救ってもらえるのか?』と、その奥義の解明に全力をつくしたわけだ。……その註解書を、ユダヤ人はタルムードとよんでいる。


 タルムードというのは、へブライ語の『教え』というような意味から出た言葉だが、タルムードの学者たちは、旧約聖書全体が、神の意志を現わすものと信じていたから、『その文章のすべてが、絶対的価値をもつものであるはずだ。だから、一見、矛盾していたり誤りのように思われる部分でも、その裏には、なにか重大な教訓や寓話がかくされているにちがいない。それを徹底的に追究して神の
本心をたしかめ、その意志を、あやまりなく正しく実現しないかぎり自分たちは永遠に救われない……』と考えた。


 そこで彼らは、旧約聖書に書かれてある文章の一つ一つ、表現の一つ一つを、細かに分析したり、統計をつくったりした……しかも、こういう研究が、数多くの学者たちによって何百年も続いたあげく、ヨーロッパの中世期になると、今度はカバラとよばれる、さらに熱心な旧約聖書研究の一群が現われたのだ」


「あら、カバラっていうのは オカルトや心霊術のたぐいじゃないんですか?』

――私はうっかり口をはさんでしまった。
「それは、怪奇小説や運勢判断の本を書く人が、その内容を神秘化するために、カバラという言葉をいかにも不気味そうに使うことから起こった、誤解だな。

……元来、カバラというのは、へブライ語の伝承、言い伝えなどという意味から出た言葉なのだ。もっとも、カバラの学者たちの多くが、幾分、神がかり的であることは否定できないかもしれないがね。なにしろ彼らは、へブライ語そのものが、秘められた意味をもつ、暗号言語であって、旧約聖書の、最初の一句から最後の一句まで全文が、神から伝わった一個の暗号だと確信しているのだから……。
 そこでカバラの学者たちは、旧約聖書の中に出てくる単語の一つ一つの文字の組み合わせを、いろいろ書きなおしてみたり、あるいは、一つ一つの文字に特殊な数字をあてはめて、その各々の数字を加えてみたり、引いてみたり、それによって、何か別の意味の言葉が現れてくるんじゃないかと
――まるで、今日の暗号解読法、それもコード式の解読法によく似た手段のあらんかぎりを、やりつくしてきたといってもいいだろう。
 ということは、旧約聖書の中に、暗号文がかくされていると思ってその解読に挑戦した人間は、なにもこのおじいちゃん一人ではなかったのだ。少くとも、過去二千年来、のべ数千人のユダヤ人聖書学者が、文字どおり人海作戦で研究しつくしてきたわけだ。
 しかも、その人たちが書き残した文章が、今日、多く公開されているのだが、おじいちゃんの調べたかぎりではそのいずれもが、聖書の中のごく部分的な文章や言葉に、新解釈を加えたという程度のものばかりで、あっと驚くような、画期的な暗号解読の大発見があったという話を、いまだに耳にしてないのは、どういうわけだろう?……その点について、悦ちゃん、きみはどう思うね?」
 おじいちゃんは、意味ありげに、悦ちゃんをみる。
「……うーん……そんなにたくさんの学者が何千年も調べていて、まだ答えが出ない
――んでしょう?……」

 悦ちゃんは椅子に背をもたせて、つまんでいた鉛筆を額の隅に押しあてながら、ややしばらく、ぼんやりと、すすけたコンクリートの天井の一角を見上げていたが、突然、目をまんまるにして叫んだ。
「あっ、サイファ-だ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  第三章 ダニエル書の疑問

 

     鍵言葉のかくし場所
 

「そうなんだよ」おじいちゃんの白い長い髯が満足げに揺れた。
「さっきも言ったとおり、ここに暗号文らしい文章が存在していて、それをコード式でいくら分析しても解読できないとすれば、『もしかしたら、これはサイファー式で構成されているのではあるまいか?』と疑ってみるのが、今日では暗号解読の定石だ。
 だが、そうなると、次にはそれを解く鍵言葉が、聖書のどこかにかくされていないだろうか?  ということが問題になってくる。ところで、サイファー式の鍵言葉は、比較的目につきやすいところに、さりげなく置かれてあるのが、これも定石だ。……とすれば、聖書の中で一ばん目につきやすい所とは、どこだろう? 

……さあ、悦ちゃん、きみなら、第一にどこから探す?」
「そうだなあ……さっきの New
Testament では Xmas Eve のという鍵言葉が、日付けのところにかくしてあったんだから、手紙でいえば、そのほかには住所とか、書き出しの挨拶の文句とか、それでなければ、あと書きとか……あっ、そうだ、聖書の一ばん最後にある本……?」

「えらい! きみは、アガサ・クリスティーの、あれは誰だっけ? うん、そのマープルおばあちゃんの跡とりになる資格があるよ」
「ほんとですか? ほんとに暗号解読の鍵言葉が聖書の一ばん最後に書いてあるんですか?」
 悦ちゃんは、鼻をヒクヒクさせて、声が少しうわずった。
「ただしね、その一ばん最後の書物とはなにか? ということが、少しばかり問題なんだな……」
「だって、旧約聖書の一ばん最後は……」
 悦ちゃんは、手に持った聖書のページを、いそいでめくりながら、
「ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書……あ、マラキ書、これが一ばん最後だから……」
「ところがね、それは今日欧米のクリスチャン
――それも、おもにプロテスタントが使っている聖書の話で、旧約聖書は、そのほかに、まだいく通りもあるんだよ」
「旧約聖書は、ひと種類じゃないんですか?!」

「あまりくわしい話をすると、かえってわかりにくくなるから、結論だけいうとね、ローマンカトリック教会では、今きみが言ったマラキ書のあとに、第一マカベア書と、第二マカベア書の二冊が正典として加えられているから、悦ちゃんのいう、旧約の一ばん最後は、第二マカベア書ということになる。――だが、ユダヤ教の人たちが今回使っているヘブライ語の旧約はどうだろう?  現代のユダヤ教では、マカベア書を正典と認めていないうえに、順序もキリスト教のものとは、非常に違っていて、きみが今、手にしている聖書のはじめの方にある『歴代志』が、一ばん最後におかれてあるんだ。
 だが問題はそれだけじゃない。いま言ったプロテスタントとカトリックとユダヤ教のちがいは、二○世紀の今日、使われているものの話だが、これからわれわれが探求しなければならない旧約聖書のテキスト原典とは、今から二千年前のイエスの時代に、一般のユダヤ人がどんなものを読んでいたか?  ということなんだ。ところがねえ、困ったことに、その頃のユダヤでは、まだ、旧約聖書の原典は何なにかということが、はっきり決っていないんだ。したがって、なにが一ばん最後かということも、断定のしようがないわけだ」
「じゃあ、聖書の一ばん最後の本に鍵言葉があるというのは?」
「残念ながら、それだけでは犯人逮捕のきめ手には、なりかねるんだな」
「なあんだ……」悦ちゃんは大げさにガッカリして、のり出していた肩をガクンと後ろへ引いた。
「そこでね、まったく別の角度から、旧約聖書の中で、なにか、格別きわだって、ほかのものと違った特徴をもっているものがないか? ということになるわけだが……それが一つある」
「なんですか? それは」
「ダニエル書……」
「ダニエル書の、どこが、ほかのとちがうんですか?」悦ちゃんは、また、のり出す。

「それはね、元来旧約聖書の原典は、へブライ語で書かれている――ではユダヤ人がいつごろからへブライ語なるものを使いはじめたかというと、まあ正確に断定するのは困難なようだが、ユダヤの歴史上、最も繁栄したソロモン王時代には、おそらく全ユダヤ民族が、へブライ語を自由に話したり書いたりしていたに相違ないといわれている。
 だが、その後ユダヤの国運が衰えだすと同時に、へブライ語よりは、当時の国際共通語だったアラム語を使う必要が多くなってきた。そのうえ、紀元前六世紀に、ユダ王国がほろぼされて、さらにユダヤ地方が、ペルシャ王国の一州となってしまうと、遂にアラム語が正式公用語となってしまった。
 しかし、ユダヤ人の知職階級、ことに宗教関係の人びとはそれでも
――というよりは、それゆえにこそ、へブライ語を聖なる言語として大切に保存して、今日まで連綿と、へブライ語の旧約聖書を伝えてきたわけだ。……したがって、旧約聖書といえば、その全文がへブライ語で書かれていなければならないはずなのに、じつに不思議なことに、問題のダニエル書だけが、『聖なる言語ではないアラム語』で書かれているのだ。
 もっとも、正確にいえば、例外はほかにもある。たとえばエズラ記の第四、第五、第六章もアラム語で書いてはあるが、これはエルサレムの神殿を再建した際の、ペルシャ国王と地方長官との往復文の書を、当時の公用語であるアラム語の原文で、そのまま載せたことになっているのだから、この部分だけアラム語が使ってあることは、むしろ当然ともいえる。そのほかに、エレミヤ書と創世記の一部にも、ほんのひとことずつアラム語が出てくるが、これも、目立つというほどのものではない。ところが、ダニエル書の場合には、第二章の第四節から始まって、第三、第四、第五、第六、第七章と、全篇の約半分がアラム語で書いてあるんだ。しかもそれが、是非ともアラム語でなくてはならない理由は、まったくないといってもいいくらいなのだ。
 では、なぜ、ダニエル書の前半の部分がアラム語で書かれてあるのか? その詮さくをする前に、いったい、ダニエル書には、どんなことが響いてあるのかを、知っておく必要があるだろう。

     なぜアラム語が使われたのか


「今、かりにダニエル書に載っていることを、全面的に事実として受けとるとすれば、まず、時代は紀元前五九七年に、バビロニア王のネブカドネザルが、エルサレムを占領したころから始まって、その後、五、六十年に及ぶ期間の話だ。そして、物語の主人公は、いうまでもなく終始一貫、ユダヤ人のダニエル。場面は、すべてバビロンの王宮と、その附近の地区にかぎられている。
 ところでこのダニエル書は、大体三章から成っているんだが、その内容を大ざっぱにわけると、前半の六章は、ダニエルがいかに超能力の持ち主であったかということを説明する五つの劇的な物語。そして後半の六章は、ダニエル自身の目に映った奇怪な幻想によって象徴される、未来の出来ごとに関する予言ばかりなのだ。
 それにしても、ダニエルが見た幻想なるものは、とりとめもない夢物語ではなくて、バビロニア王が滅亡してから後、まャずペルシャ王国が栄え、つぎにギリシャのアレキサンダー大王がそのぺルシャ国をほろぼすが、それも束の間で、最後には、シリアとエジプトがユダヤ地方をうばい合うようになる
――という紀元前六世紀から紀元前二世紀にかけての歴史的事実を、驚くべき正碓さで象徴的に予言しているのだ。
 そればかりではない。この後半の、幻想の中に出てくる天使たちの予言によれば、ダニエルの時代から計算して、四、五百年ほどのちに、メシアが現われて、ユダヤ民族を頭(かしら)に戴く神の王国が建設される。そしてその時には、過去の死人も復活して、永遠の命を得る者と地獄に落とされる者とに、ふるい分けられる
――などということが語られているわけだ。
 ところが、そのダニエルの時代から四、五百年後といえば、ちょうどイエスが生まれる少し前のころに当る。それで、その予言とまったく同じこと、つまり、神の王国が建設される時が到来したということを、宣言したキリスト教が、爆発的にひろまっていった背後には、このダニエル書の予言に熱狂的な期待をかけていた当時の、巨大な民衆層が存在したという事実を、見落とすわけにはいかない。
 ではこのダニエル書なるものは、誰の手によってどのようないきさつから書かれたものか? さあ、そこが問題なんだ。

 

 今から二千年前のユダヤ人の多くが、ダニエル書を読んで、その内容になんの疑いも抱かなかったのとは反対に、少くとも二○世紀の今日の聖書研究家の中には、紀元前六世紀にダニエルという人物が実在して、本当に、不思議な幻想を見たのだと思い込んでいるような人は、おそらく一人もいないだろう。では、なぜダニエル書の内容が、現代ではそんなに信用されなくなったか? というと、ま
ず第一に、このダニエル書の後半の六章に書かれてある、紀元前二世紀ごろの出来ごとを暗示しているものと思われる寓話の数々が、予言にしては、あまりにも正確に的中しすぎているからだ。その逆に、前半六章の物語に出てくる、紀元前六世紀ごろの、バビロニア国王たちについての説明は、まちがいだらけで、この書物の著者が、その時代の歴史をあまりよく知らなかったのだということを、明
白にしている。
 さらに、もう一つ問題になる点は、紀元前二世紀中ごろまでの出来ごとに関する予言は、時代が新しくなるのに比例して見事に的中しているくせに、紀元前一六○年代を境としてそれ以後のことについては、急にその記述が歴史的事実とは、かけ離れてしまうということだ。結局、このダニエル書という書物は、紀元前二世紀に、シリア国王に対するマカベアの反乱が起こった当時に、全ユダヤ民族を勇気づけふるい立たせるために、慎重に計画された煽動文書であって、紀元前六世紀のダニエルなる人物が、純粋に霊感によって語った予言書ではない 
――したがってダニエルという人物も、実在しなかった――というのが、今日の聖書研究家の大半が到達した結論のようだ。だが、おじいちゃんはこのダニエルこそ、旧約聖書に登場する人物の中で、随一の実在人物だと思っているくらいだ。……まあ、それはともかく、どんなにダニエルやダニエル書を否定したところで、すべての疑問が解けたというわけにはいかない。なぜなら、『では、どうしてこのダニエル書の前半の部分が、ヘブライ語ではなく、アラム語で書かれているのか?』という問題が、まだ解決されていないからだ。

 

 今日の聖書研究家の多くは、紀元前二世紀ごろのユダヤの民衆は、アラム語しか読めなかったから、彼らを激励し、説得するために、特にアラム語を使ったのだ――と説明している。……ではなぜ、その前半だけがアラム語であって、後半の第八章から第一二章までの五章はヘブライ語になっているのか? ――それは 幻想の形式で象徴している予言に、壮重さを加えるためとも、また復古調を好む国粋主義者たちに迎合するため……ともいわれる。
 しかし、一般大衆のためなら、なぜ、全篇をアラム語で書かなかったか? その逆に、国粋主義者が相手なら、あるいは、壮重な雰囲気を出したいのなら、なぜ、全篇をヘブライ語にしなかったのか、となると、どちらも理由がはっきりしない。
 問題はそれだけではない。かりに、前半の物語的な部分はアラム語、後半の幻想的な部分はヘブライ語としたのだとしても、それならあの、

 

   わたしは夜の幻のうちに見た。見よ、天の四方からの風が大海を

   かきたてると四つの大きな獣が海からあがってきた……

 

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現在のオリーブ山

イザヤ書の謎を
天国の奥義とは
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ユダヤの聖書学者たち
第三章ダニエル書
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コードサイファ
なぜアラム語

 

 というような、奇怪な幻想が始まる第七章から、へブライ語であっていいはずなのに、なんと、その第七章はアラム語で書かれているんだ。
 さあ、こうなると、どうしても、これまでの聖書研究家の説明では割り切れない問題が残ってしまう。そこで、別の解釈が必要になるわけだが、それは……

 ――ダニエル書の第一章から第七章まではマカベアの反乱時代の煽動文書とは関係なしに、それよりかなり早く、アラム語で書かれてあったのではなかろうか? ところが、その内容が(特に第七章の部分が)、たまたまシリア国王に抵抗して戦うユダヤの民衆を鼓舞するのに都合よく描かれていたので、その当時の誰かが、第七章のダニエルの幻想をさらに押しひろげて、第八章から第一二章ま
での五章を、へブライ語で書き加え、ついでに、前後の調子を揃えるために、第一章と、第二章三節までの、ダニエル登場の発端の部分をも、ヘブライ語に翻訳しなおしたのではあるまいか? 
――という解釈だ。だが、そうなると――それならば彼はなぜ、第二章三節ででなく、それから以下の前半の六章全部を、へブライ語に翻訳してしまわなかったのか? という、新しい疑問がわいてくる。

 


     ひと時とふた時と半時 


「話がだいぶややこしくなってきたから、一応、整理してみよう。まず最初に、Aという人物がいて、ダニエル書の第一章から第七章までをアラム語で書いた。次に、Bという人物が現われて、第八章から第一二章をヘブラィ語で書きたして、ついでにAが書いた第一章から第二章三節までの部分を、アラム籍からへブライ語に翻訳した――と仮定しよう。だが、なぜかBは、第二章四節から第七章までのアラム語の部分を、原文のままにしておいて、へブライ語に訳さなかった。いったい、それはなぜだろうか? そこでだが――その理由は、旧約聖書全編の中で、この部分をひときわ目立つようにしようという意図があったから ――とは考えられないだろうか?
 ここで、その仮説を押し進めるとしたら、いったい、BはAの書いた部分の中の、何を目立たせようとしたのだろうか? そこで、Bが書き加えたと想像される文章、つまり、第八章以下を細かにたどっていくと、第一二章五節以下で不思議な言葉にゆきあたる。
 それは、主人公のダニエルが、川のほとりに立っていると、見知らぬ人が現われたので、『この異常なできごとは、いつになって終るのでしょうか』とたずねると、彼は『それはひと時とふた時と半時である』と答える。
 この『ひと時とふた時と半時しという言葉について、今日の聖書研究家は口を揃えて、紀元前一六八年から前一六四年までの間、エルサレムの神殿が、シリア王の軍隊によって荒らされた時期をさすものと説明している。
 ところが、この言葉は、第七章のアラム語の部分(七-25)にも書かれてあるものが、ここでもう一度くり返されているんだ。だからもし、第一軍から第七章までが、マカベアの反乱以前に書かれたものとすれば、なにか、まったく別の意味を持っているものと考えなければならなくなる。……はたせるかな、第一二章八節を読んでみると、


     わたしはこれを聞いたけれども悟れなかった。わたしは

     言った、『わが主よ、これらのことの結果はどんなでしょ

     うか』。彼は言った、『ダニエルよ、あなたの道を行き

     なさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておか

     れます。多くの者は自分を清め、自分を白くし、かつ練

     られるでしょう。しかし悪い者は悪いことを行ない、一

     人も悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう』……
 

と書いてある。それからまた、この第一二章には、

 

     『ダニエルよ、あなたは終りの時まで、この言葉を秘し、

     この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り

     しらべ、そして知識が増すでしょう』(一二-4)

 

とも書いてあるのだ。
 おじいちゃんはこの文章を読むたびに、いつも思うんだが、このダニエル書を書いた人は、アラム語の著者(A)にせよへブライ語の著者(B)にせよ、二人がそろって読者にむかって、『ひと時とふた時と半時の間』の謎を、解けるものなら、解いてみろ』
――とけしかけているような気がしてならないのだ。……となると、さあ、悦ちゃん、これから先を、どう推理したらいいと思うね?」
「もう、ぜんぜん、だめです」悦ちゃんは首をふって、ニッコリする。
「実はね、おじいちゃんも、ここまで来て、ハタと行きづまってしまったんだ。でもね、ただ行きづ まっただけでは、この話は、これでおしまいになってしまうし、そうかといって、これから先で、どのくらい苦労したかということを、自慢らしくしゃべっていたら
――本当は自慢したいところだがね、まあ、きりがないから結論をいうと……」
「やっぱり、かくし場所、わかったんですか? 鍵言葉の……」
「いっぺんにわかるというわけにはゆかないが、とにかくこの『ひと時とふた時と半時の間』という言葉が、聖書のほかの場所で、それもまったく思いがけない場所で、使われていることを発見したんだ。
――それは 聖書のどこにあったかということを話すまえに、もう一度復習しておかなければならないことがある。
 サイファー式の鍵言葉は、比較的、目につきやすいところに、さりげなく書かれてあるのが定石だが、その一ばん目につきやすい所といえば、聖書の一ばん最後にのっている書物ではあるまいか? といったのは、悦ちゃん、きみだったね」
「でも、結局、それが、はっきりしなくなって……」
「そう、さっき、きみは自分で聖書のぺージをめくって、最後の書物はマラキ書だといったろう」
「ええ、だけど……それが、マラキ書じゃないって……」
「じゃあ、もう一度、その聖書のぺージをめくってみたまえ……」

「なんべん見たって、マラキ書が最後です」
「そんなことないよ。まだその先が、どっさりあるじゃないか」
「その先って?  これからむこうは、旧約じゃなくて新約聖書ですよ?」
「だからさ、今きみの手にしている聖書の一ばん最後は何か? と聞いてるんだよ」
「それはヨハネの黙示録です」悦ちゃんは少し馬鹿馬鹿しそうな声を出した。

 

「じゃ、そのヨハネの黙示録の第一一章を開いてごらん……そこに『ひと時とふた時と半時の間』という言葉が出てくるはずだが」
 悦ちゃんは、活字の上を指を走らせてだいぶ長い間さがしていたが、
「そんな字、どこにもありませんよ……『三日半の間』というのならあるけど」
「そうかなあ、第一一章の第二節になんと書いてある?」
「……彼らは四二ヵ月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう……」
「四二ヵ月というのは、何年何ヵ月?」
「四二を一二で割ると三がたって……三年六ヵ月です』
「じゃ、その次の第三節の『一、二六○日』を、昔ふうに三六○日で割ると?」
「……三年と、残りが一八○日だから、あっ、これも三年六カ月です……」

「ほらね、ヨハネの黙示録を書いた人は、まさに、さりげない顔をして、ここに、ダニエル書の言葉をなんどもちらつかせているんだ。……じつは、その先の第一二章にも『一、二六○日』とか『一年二年また半年の間』という言葉があるし、さらに第一三章でも、もう一度、『四二カ月の間』と言っている。何度もくり返して言うとおり、ダニエル書に出てくる『ひと時とふた時と半時の間』というのは、一般には、マカべアの反乱時代にエルサレムの神殿がシリア国王の軍隊によって荒らされた期間――これは ユダヤの宗教、慣習を根本から抹殺しようとしたシリア国王への不満、マカベアと仇名された地方祭司の息子から爆発して、結局、ユダヤが独立をかち取るもととなった事件だが、このシリア王にエルサレムの神殿が荒らされていた三年半――のことだと解釈されているし、ダニエル書をヘブライ語で書いた著者(B)も、たしかに、一応はそのことを暗示しているにちがいないのだが、それと同時に、アラム語のダニエル書の著者(A)が、なにか別の意味をそこにかくしていることも、はっきり意識していたはずだ。……ところが、どうやら、このヨハネの黙示録を書いた人は、その両方の意味を承知の上で、読者にむかってさかんに謎めいた言葉を投げかけているらしい。
 しかも、このヨハネの黙示録こそは、旧約新約を通じて、聖書の一ばん最後にのっている書物なんだから、これ以上、目につきやすい場所はないということになる。
 さあ、そうなると、どうしても、ヨハネの黙示録という書物には、いったい何が書いてあるのかということを、徹底的に調べてみなければならなくなるわけだ。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   第四章  封印を解くにふさわしき者


 

     認められない書物
 

「では、そもそも、この黙示録なる本は、誰が書いたのだろうか?  この書物の中では著者の名がヨハネであることを、都合三回もくり返している。それで、これほどに『自分はヨハネだ』と主張する人物は、イエスに最も愛されたと言い伝えられている使徒ヨハネにちがいない――と思い込んでいる人がかなり多い。しかしその反面、今日では、大部分の聖書研究家が、これはヨハネという名の、まったく別の人物だ、と断定している。
 さて、伝承によれば、このヨハネという人物が、エーゲ海の南東に位するパトモス島で、神の啓示をうけたのは、ローマのドミチアヌス皇帝の時代で、およそ紀元九四年から九六年の間のことだったろうといわれている。そして、これまた伝承によれば、その当時、彼はこの島の石切場で、流刑者として強制労働をさせられていたともいう。
 いずれにしても、そのヨハネなる人物の前に、ある日突然、イエスと思われる幻影が現われて、『あなたが見ていることを、書きものにして…………七つの教会に送りなさい』と告げる。
――七つの教会というのは、いずれも小アジアの大陸にあるものばかりだが、そのまぼろしの人物は、まず最初に、一つ一つの教会に対するきびしい批判や、はげましや、慰めの言葉を語りはじめる。
 やがて、その七つの教会への託宣が終ったころに、ヨハネが空を見あげる皇 今度は七つの封印によって閉じられた巻物を手に持つ神の姿が、雲間に現われる。ヨハネは、その巻物の内容を知りたいと思うが、それを読むことは、誰にもできない。しかし最後に、『よみがえったイエス』にだけ、その巻物を開くことがゆるされる。ところが、その一つ一つの封印が開かれるたびに、恐ろしく、奇怪な天変地異が次つぎと起こって、刻一刻、この世の神の審(さば)きの日がせまってくる。
 それと同時に、悪魔が巨大な竜の姿となって現われて、天使たちと激しいたたかいをはじめる。だが、結局、悪魔は捕えられて底知れぬ地下の牢獄に、千年の間、とじ込められてしまう。こうして地上に悪は一切なくなり、過去の殉教者たちも生きかえって、救世主であるイエスとともに、千年の間、平和な楽しい生活を続けることになる。
 しかし、この神の王国は、永遠に続くわけではない。約束された千年という期間が終ると、閉じ込められていた悪魔がふたたびどの世に現われて、すべての『反キリスト教体制』を総動員してあばれはじめる。これが、世界最終の戦いであり、この戦争に当って、キリスト教側についた者は永遠の命をあたえられ、悪魔の側にまわった者は、永遠の業火の中に投げ込まれてしまう。
 こうして、今度こそ、最終的に天も地もすべてが一新して、新しいエルサレムの都が天から下ってくる……ヨハネの黙示録の内容を、ごく手短かに話せば、大体こんなところだ。
 だが、この書物の著者は、ほんとうにこの通りの霊感を体験したのだろうか? それとも、こういう奇怪きわまる寓話にことよせて、何か、まったく別のことを言おうとしているのだろうか? 
――読む人の心構えの違いによって、この黙示録ほど千差万別の解釈がくだされる書物もめずらしいが、いったい、その原因はどこにあるのだろうか? 

 

 ところで、悦ちゃんは『アンティレゴメナ』という言葉をきいたことがあるかい? ――『論争のまとになっているもの』とか、『認められないもの』というような意味のギリシャ語だが、ではいったい、何が認められないのか? 何が論争のまとになっているのか? というと、キリスト教会では、おもに『新約聖書の正典として、認められるべきか否か?』という問題を論ずる場合に、この言葉が使われるのだ。では、どうして、そんな特別な用語が必要になったかというと……
 今日われわれが使っている新約聖書の中には、二七冊の書物が入っている。この点では、ローマンカトリックでも、グリークカトリックでも、プロテスタントでも、みんな同じだ。
 しかし、最初から新約聖書は、現在の二七冊が公認されていたかというと、そうじゃない。少くとも、二世紀の終りちかくまでは、正典として認めるべきか、否かという問題で、くり返し論争のまとになっていた七冊の書物があった。それが、いわゆるアンティレゴメナ、つまり『問題の書』で、その一つ一つの名をあげれば、へブル書、ヤコブ書、ぺテロ第二書、ヨハネ第二書と第三書、ユダ書、そしてヨハネの黙示録の七冊だった。だが今は、混雑を避けるために、他の六冊についてはここで触れないことにして、問題を、黙示録だけに限ろう。
 まず第一に、ローマンカトリックとは、立ち場を異にする東方教会系では、現在は黙示録を一応、二七書の中に認めてはいるものの、教会の典礼では、今日でもなお、ヨハネの黙示録だけは、絶対に朗読しないことになっている。その理由は多分、浅はかな読み方をする信者が、勝手な解釈をして、常軌を逸する行動をする危険があると思われるからだろう。
 しかも、この東方教会系で黙示録を正式に新約の正典と認めはじめたのは、四世紀ごろからで、それまでは、『新約聖書』といえば、黙示録を除いた二六冊(もっとも、その少し前までは『パウロの書簡以外の書簡』をも除いた二一冊)だった。
 それも、東方教会の全体がそろってそう決定したわけではなく、ある一部の地域では、九世紀ごろまで、黙示録を除外していた所さえあった。では、プロテスタントの側では、どうだろうか? 

 

 聖書を、神の書とたたえているルーテルが、一五二二年に、新約聖書を初めてドイツ語に訳して出版したとき、特にヘブル書、ヤコブ書、ユダ書、そして黙示録の四冊だけは、はっきり他の二三冊とは区別して、彼個人としては、それを正典として認めたくない意志があったことを暗示している。

 その問題の四冊のなかでも、ことにヨハネの黙示録について、ルーテルは、『この本は欠点だらけであって、この本の著者が十二使徒の一人だったり、預言者だったとは思えない』と言っている。彼は『この本の中でくり返されている幻想の物語は、著者が神の霊感をうけて実際に体験したものとは信じられない。したがってこの本は、本当の意味でのイエスの証しにはなりえない』ときめつけていたようだ。
 だが、これはルーテル一人の意見ではなく、初期のプロテスタントの指導的立場に立つ人びとの、ほとんどが、黙示録の内容を、頭から否定するか、少くとも強い不満を感じていたらしい。
 では、それほどまでに問題になっている黙示録が、なぜ、新約聖書の正典として、現代のすべてのキリスト教徒から、一応みとめられているのだろうか? それは、ローマンカトリック教会が、終始一貫、黙示録の正典性を断固として確認しつづけてきたから
――ではないかと思う。
 ふり返ってみると、二千年もの長いキリスト教の歴史を通じて、かなり多くの人びとから、その欠点を指摘しつづけられてきた黙示録を、あくまで新約聖書の正典の中から除外しようとしないローマンカトリック教会は、いったい、黙示録に、どんな長所があると主張するのだろうか? 言いかえれば、『わたしはヨハネ』と名のる人物が、黙示録の、あの奇怪きわまる幻想の物語を通じて、なにを
読者に訴えようとしているのか? その真意が、どこにあると、カトリック教会では解釈しているのだろうか?
 このことは、おじいちゃんにとって、キリスト教についての大きな疑問の一つだったのだ。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     覆(おお)いをとり去る


「ところで、さっきも言ったとおり、ルーテルは、黙示録の中に描かれている幻想を『著者の霊感にもとづくものと信じられない』と断言した。実は、そのことについては、非常に早いころから、疑問をいだいていた人が多いのだ。その理由は、黙示録の著者は、世にも不思議な幻想の数々を実際に見たと書いているが、その文章の中に、旧約聖書にあるのとそっくりの言葉づかいや、情景描写をして
いる場面が、二四五カ所もあるという人があり、二七八ヵ所だという説もあるという問題だ。
 おじいちゃんは、そういう数字にはあまり興味がないから、自分で一つ一つかぞえてみたことはないが、とにかく、それでは、黙示録の著者が書いている幻想なるものは、彼自身の体験ではなさそうだ
――と、主張したい人があるのも当然のことだ。
 しかし、一方では、なるほど表現の仕方は、旧約の文章から借りてはいるが、著者の体験そのものはあくまでも真実なのだと、弁護する人もある。
――どちらが本当なのだろうか?
 正直いうと、おじいちゃんにとっては、そんなことは、どっちだっていい問題なんだ。それより、今、ここではっきり言いたいのは、『この黙示録の著者は、一般に想像されている以上に、すぐれて合理的で、級密な頭脳の持主であって、なにか、重大な問題を説き明かすために、驚くほど冷静な態度で、綿密な計画を進めている』ということだ。
 なぜかというと、黙示録をくり返してよくよく読んでみると、この著者は、旧約聖書の中にある語句や文章を、ただ神秘がってあれこれ拾い出しているのではなくて、正確な計算によって、その中になにごとかを言わんとしていることがおじいちゃんには感じられてくるのだ。ことに、その感じを強くさせられるのは、黙示録には、旧約の創世記に出てくる言葉と、まったく対照をなす記述が非常に
多いということで、今、その全部をかぞえあげるひまはないが、すぐ思いつくものを並べてみると、

創世記は、この世がつくられる物語だが

 黙示録は、この世の終りの物語

創世記には、悪魔がはじめて神に反抗する話が出てくるが
 黙示録は、悪魔の最後の破滅
創世記では、太陽や月がはじめてつくられるが
 黙示録ではもう『日や月は照らす必要がない』(二一-23)とあり
創世記では、『やみを夜と名づけた』(一-15)といっているが
 黙示録では『夜は、もはやない』(二二-5)という
創世記では『水の集った所を海と名づけ』(一-10)たが
 黙示録では、海もなくなってしまう(二一-1)

創世記では、罪の始まりのことを物語っているが(三章)
 黙示録では、一切の罪がなくなった世界を物語っている(二一章、二二章)
創世記には、蛇と人に対する神の呪いの言葉が書いてあるが(三-14・17)
 黙示録では、『呪わるべきものはなにひとつない』といっている(二二-3)
創世記ではすべての人間が一生苦しい生活をすることをきめられるが(三-17)
 黙示録では『もはや悲しみも痛みもない』と約束される(二一-4)
創世記では、人間の死のはじまりについて語られているが(三19
 黙示録では『もはや死はない』といっている(一二14)
創世記で、人間は天国から追われるが(三-24)
 黙示録では、人間は神の国に戻ることが許される(二一-24)
創世記では、神は、命の木の実をたべさせないために、人間をエデンの間から追放したが(三-24)
 黙示録では、人間にも命の木にあずかる特権が許される(二二-14)

 

……まあ、ちょっと思いつくだけでも、このくらいあるが、あとできみもゆっくり調べてごらん。このほかにも、十や二十は、わけなく拾い出せるはずだ。
 だが、そのうえ、さらに意味深長に思えるのは、黙示録の中で三回もくり返される、『わたしはアルパであり、オメガである』という言葉だ。これは最初の者であり最後の者である』とか、『初めであり終りである』という言葉といっしょに使われているところをみると、イザヤ書にある『わたしは初めであり、わたしは終りである、わたしのほかに神はない』(四一-4、44-6、四八-12など)から引用しているに相違ないのだが、その意味だけでなく、旧約聖書の最初の創世記と、新約聖書の最後の黙示録が、一対を成していることを、ここで強く暗示しているのではないだろうか?

 そればかりでなく、『アルファからオメガ』といえば、『何一つ欠けていないもの』 ━━ つまり、ことが完結する意味にもなる。……ということは、旧約聖書にかくされてある奥義の秘密は、この黙示録によって、はじめて解明される……と言ってるのではないだろうか?
 こう見てくると、おじいちゃんには『黙示録』という題名そのものが、想像以上に深い意味をもっているように感じられてくるのだ。


 いったい、この黙示録という題名は、この本の第一行目の『イエスキリストの黙示』という書き出しから取ったものだが、英語で黙示はレヴェレーション、あるいは、アポカリプス。そのちがいは、レヴエレーションの語源はラテン語、アポカリプスの語源はギリシャ語であるだけで、いずれも、本来は『覆いをとりのける』というだけの意味だ。だが、これが、黙示録という書物のおかげで、『神
のお告げ』の意味になったり、『この世の終りの神の審(さば)きの日のありさまを告げる』意味になったりして、今日では、ただ単に、未来のことを予言する意味で使ったりする。


 が、とにかく、元来のギリシャ語のアポカリュプシスは、宗教とは関係なく、覆い隠されていたものから覆いをとりのける――つまり『事の真相をあばき出す』というような場合に使う言葉で、どちらかといえば、今日の推理小説の場合のように、過去において不明だったなにごとかを看破する、発見するという意味にちかいわけだ。
 となると、黙示録は、本来、なにかの謎解き、つまり、旧約聖書の中にかくされている、暗号文を解読するための鍵言葉として、書かれたのではあるまいか? という考えを、おじいちゃんは、打ち消すことができない。
 黙示録の中には、そのほかにも、気になる言葉がどっさりあるが、特に不審に思われるのは、第二二章一八節の、

     この書の予言の言葉をきくすべての人びとに対して、

     わたしは警告する。もし、これに書き加える者があれ

     ば、神はその人に、この書に書かれている災害を加え

     られる。また、その予言の言葉をとり除くものがあれ

     ば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれてい

     る命の木と、聖なる都からとりのぞかれる

 

という文句だ。
 昔から、黙示録に対して否定的な人は、ことに、この部分で、内容に手を加える者を威嚇しているのがけしからんと憤慨するし、黙示録びいきの人は、この部分は、後世の誰かが書き加えたのだと弁護する。しかし、『書き加えてはいけない』という言葉を書き加えたというのも、おかしな話だ。
 だが、これが、もしも、黙示録の中に、暗号解読用の鍵言葉がかくされているとすれば、勝手に文章を直されたが最後、鍵の用をなさなくなってしまうおそれがあるのだから、手を加えるのを厳禁したのは、当然だということになる。
 したがって、『この書物の中に書かれていることを守る者は、さいわいである』(--3、二二-7)と強調したり、さらには七つの教会の人びとに対する手紙の中で、七回もくり返して、『耳ある者は、み霊(たま)が諸教会に言うことを聞くがよい』と、厳重に警告しているのも、ただごとではない感じがする。
 では、この黙示録の中に、どんな重大な意味の言葉がかくされているのだろうか? それを探しあてる手がかりは、いったい、なんだろうか?


 

     第七番目の言葉とは
 

「ところで悦ちゃん、サイファー式の暗号解読用鍵言葉は、比較的目につきやすいところに書かれてあるということは、これまでに何度もくり返してきたね。

……では、黙示録の中で一ばん目につきやすい言葉はなにか?……それはもう、誰でも一ぺん読んだらすぐ気がつくはずだが、七という数字が、あきれかえるほど頻繁に出てくることだ。これも、おじいちゃんが自分で勘定したわけではないが、もの好きな人の説によると、七つの教会、七つの燭台、七つの星……と、七という数字が都合、五四回も使われているそうだ。したがって、もし、この七という数字が、サイファー式による暗号解読の鍵言葉とすれば、当然『七つずつ飛ばして読め』という謎か、あるいは、七つ目ごとに、大切なことがかくしてある、と解釈しなければならないだろう。
 といっても、七つの星とか、七つの角とか、七つの目というような、あまり重要ではなさそうなものは除外して、七ということに深い意味がありそうな問題を拾い出してみると、まず最初に七つの教会にあてた七つの手紙が出てくる(二-1〜三-21)次に、神が手にしている巻物の七つの封印を一つ一つ解く話(五-1〜八-1)があり、さて、それが終ると、こんどは、七人の天使が七つのラッパを次つぎに吹き鳴らす(八-2から一一-19)が、その途中で、七つの雷が語った言葉の話が、意味ありげに挿入されている(一〇-3~11)。
 ところで、そこから先の、第一一章、一二章、一三章には、七の数字が出てこないが、ここはすべて、七の六倍の『四二カ月』の間、悪魔が大いにあばれまわる話だ。したがって、その先の、第一四章からは、その七の六倍の期間が終って、七の七倍の期間に入り、いよいよ天使たちが悪魔退治にのり出すことになる。そして、第一五章からは、七人の天使が、神の怒りにみちた、『七つの災害の鉢』を悪魔たちに浴びせかける(一五-1〜一六-21)。
 それが終ると、七つの鉢を持っていた七人の天使のおのおのが、こもごもヨハネを案内して、悪魔たちが自滅してゆく様子を説明してくれる。中でも、第七番目の天使は、ヨハネを高い山の頂上に連れて行って、天から下ってきた新しいエルサレムの風景を見せる(一七-1〜二二-11
)。……ざっと、まあ、こんなふうに、物語が進行してゆくわけだ。
 こう読んできて、そこに番かれてある天変地異や、悪魔と天使との戦いの話などの一つ一つを、近い将来の事件として予言しているのだと思うと、いかにも衆愚をまどわす迷信的な書物だという感じがするが、もし、この黙示録そのものが、サイファー式暗号解読の鍵言葉だとするならば、そういう寓話的な話のところをすべて、中間の埋め草だと解釈して、ふり拾てて行っていいだろう。そして、七つずつくり返される物語の七つ目ごとに出てくる言葉だけを拾いだすと、そこに何が現われてくるか?……

さあ悦ちゃん、それをいっしょに調べてみることにしよう。


 まず、最初に出てくる、七つの教会にあてた七つの手紙は、それ自体が『途中の六つを飛ばして七つ目に注意』という鍵言葉だと仮定してみよう。そうなると、第一に問題にしなければならないのは、七つの封印の物語(五-1)だ。そこには 

 

     わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻き物が

     あるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、

     七つの封印が封じてあった。また、一人の強いみ使いが

     大声で『その巻き物を開き、封印を解くにふさわしい者

     はだれか』と、呼ぱわっているのを見た。しかし、天に

     も地の下にも、この巻き物を開いてそれを見ることので

     きる者は、一人もいなかった。巻き物を開いてそれを見

     るのにふさわしい者が、見当らないので、わたしは激し

     く泣いた。
 

と書いてある。ここで『巻き物の内側にも外側にも字が書いてあった』というのは、エゼキエル書(二-9)の『見よ、手の中に巻き物があった。彼がわたしの前にこれを開くと、その表にも裏にも、文字が書いてあった』から引用したものだが、黙示録の著者は、ただそれだけの描写ではなく、『聖書には、表の意味と裏の意味がある』ことを暗示しているのではなかろうか?
 要するに、ここでは、旧約聖書の中に秘密として封じられた天国の奥義を解明することは、長い間、誰にも許されなかったが、ついに、『この巻き物を開き、七つの封印を解くにふさわしき者(それはほふられたと見える小羊』つまり、よみがえったイエス)が現れた
――ということを物語っているものらしい。
 そこで、その『小羊』は、神の手から問題の巻き物をうけとって、一つ一つの封印を開きはじめる。だが、ここでもまた、そこに描かれている、馬にまたがった人物や、過去の無数の殉教者たちや、将来、天国に迎えられることが約束されている人びとの話などに、いちいち、かかずらっていては、いけない。さっき言ったようにそれらの物語はすべて、話を複雑に見せかけるための埋め草なのだから、いきなり第七の封印を解くところ(八-1)に飛んで、そこに書かれてある文章を調べることにする。ところが、意外なことに、そこでは重要と思われる言葉が、なに一つ発見できない。
――しかし、そこからすぐ、七人の天使が七つのラッパを吹く話がはじまる――ということは、そのまま途中の六つのラッパの話を飛ばして、第七の天使がラッパを吹く所(一一-15)を調べろという意味だ ――と解釈して、その第七のラッパを吹き終った直後の部分を読んでみると、『この世の国は、われらの主と、そのキリストとの国となった。主は、世々限りなく支配なさるであろう』という言葉が書いてある。
 だが、うっかりそれを鍵言葉だと思い込んでは大変だ。なぜならば、(この第一一章から以降の文章のどこかに、たしかに鍵言葉はかくされているに相違ない   
――と、おじいちゃんには思われるのだが)その鍵言葉を、黙示録の著者は、ここでもう一度、意地悪く、七という数字だけでは解けない、別の暗号で、封じなおしているらしいのだ。


 なぜ、そう推理するかというと、そもそも第六の天使がラッパを吹いた話の次にあたる、第一○章で、当然、第七の天使が、ひきつづいてラッパを吹くはずなのに、どういうわけか、突然、横あいから、七つの雷が割り込んでくる。しかも、その七つの雷は、なにか重要なことを、ヨハネに語ったらしい。そこで彼は、いそいでその場で、それを書きとめようとした。ところがその時、『七つの雷の語ったことを封印せよ。それを書きとめるな!』という声が、天からきこえてくる。そして、その直後、ヨハネは、別の天使が手に持っている巻物を、『食べて、腹の中に呑みこめ』と命令される。
 ところで、ここでヨハネが食べてしまった巻物と、最初に出てきた、七つの封印をした巻物との関係はどうなっているのか?……ちょっと見るとまったく別もののようだが、元来この『巻物を食べて腹の中に呑みこむという話』もまたエゼキエル書(三-3)から引用したもので、さっき話した『その内側にも外側にも字が書いてある巻物の話』と連続している物語なのだ。だからこの場合、ヨハネが『封印せよ』と命令された『七つの雷の言葉』も、腹の中に呑みこんだ天使の巻物も、元来、『七つの封印した巻物』の中に書かれている奥義そのものだったと解釈すべきではなかろうか?

 となると、折角ここまでわれわれが苦心して探してきた天国の奥義の暗号文は、永遠に封印されて解読できなくなってしまうのだろうか?  ところが不思議なことに、この第一○章には、

     第七のみ使いが吹き鳴らすラッパの音がする時には、神が

     その僕預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成

     就される

とも書いてある。――だとすると、第七の天使がラッパを吹く第一一章以降の文章の中でなにか別の暗号文によって、神の奥義(あるいは暗号解読法)が、説明されている――と、推理性ざるを得ないわけだ。

 では、その、新しい暗号文は、どんな形式で、どこにかくされているのか?

 

 それをさがしあてるためには、新しく第一五章からはじまる『七人の天使が七つの鉢を悪魔たちに、浴びせる話』についても調べてみる必要がありそうだ。例によって途中は無視して、第七の鉢を傾けたところ(一六-17)を読むと、『事はすでに成った』と書いてある。

 そして、それからすぐひき続いて節一七章になると、その七つの鉢を持った七人の天使が、こもごもヨハネに語りかけるわけだが、その最後の、第七番目の天使の案内によって(二一-19)、ヨハネは高い山の頂から新しい聖なる都エルサレムの全景を見下ろす。ヨハネは感激して、その天使の足もとにひれ伏すと、彼は『そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書の言葉を守る者たちと同じ僕(しもべ)仲間である。ただ神だけを拝しなさい』と言い、それにつけ加えて、『この書の予言の言葉を封じてはならない』と、命令する。(二二-8~10)
 さあ、そうなると、いわゆる『この書の予言の言葉』は、ここではすでに解読することが許されているわけだ。では、さっき、改めて『封印せよ』と命令された第一○章以降の、どこで、その封印を解くことが許されたのだろうか?
 そこで今度は、終りの方から逆にたどり直してゆくと、さっきも言ったとおり、第一六章一七節で、第七の天使が、『事はすでに成った』と言っている。この七人の天使の物語は、元来、第一五章からひとつながりになっているのだから、この場合、第一五章以降では、『事はすでに成っている』と解釈しなければならない。
 そうなると、残るのは、第七の天使がラッパを吹いた第一一章から第一二章、一三章、一四章の間だということになるわけだが、悦ちゃん、ここで、是非、思い出してもらいたいことがあるんだ。
 前におじいちゃんは、ダニエル書の話をしたときに、『もし、このダニエル書に、暗号解読用の鍵言葉がかくされているとしたら、一ばん気になるのは、その第七章と、第一二章に出てくる、『ひと時とふた時と半時の間』という言葉だといったろう? 
――ところがなんと黙示録の第二章と三章、一三章こそが、そのひと時とふた時と半時の間と同じ意味の、四二ヵ月とか、千二百六十日という言葉を、くり返し使っている場所なんだ。
 そして、さっきも言ったとおり、第一四章は、その四二ヵ月が終って、天使が、悪魔退治にのり出す話になるわけだから、どう考えても、暗号解読用の鍵言葉は、この第一一章と一二章と一三章のどこかにかくされてあって、しかも、それをさがしあてる手だてとしては、改めて、四二ヵ月という言葉が、大事な役目を果たすのではあるまいか? ということになってくる。
 さあ、ここまで来たら、悦ちゃん、きみなら、どうする? どうする?」
 おじいちゃんは、さらに声を弾ませて、手にした聖書を、得意そうにポンポンと打った。だが、その時だった。「ストップ、ストップ、ストップ!!」と、早口のかん高い声が、とつぜん耳を打って、一瞬、驚いたと感じたら、気がつくと、いつの間にか水を飲みに流し台の前に行っていた私自身が、鷲づかみにしたたカップの底で、調理台の上を夢中で叩きながら叫んでいたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

ひと時とふた時
第四章封印を
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覆いをとり去る
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第七番目の言葉
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第二章史上最大の
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